ゆきの谷
「より多くの民家や畑から、ごく少量を満遍なく失敬して来たんですよ。発見される危険は高かったですが、島の人たちが困らないようにと…」
窃盗には変わりないのに、(その後ろめたさの自覚は、まだ良心が残されている証拠である)と、言い訳がましい解釈を創作して自身を納得させた。
「そう言う高橋さんは、いったいどんな手を使ったというのですか」
一瞬、躊躇したが、高橋は右手人差し指を前に突き出し、引き金を引くそぶりをした。(やっぱり)…、と源は顔をしかめたが、予想とは異なり思わぬ応えが返ってきた。高橋はバツ悪そうに、というより照れくさそうに横を向くと口を開いた。
「ああ、オレか。…いくら『遭難しかけた哀れな漁師だ』といっても、あんな時間に突然押しかけて『水と燃料をくれ』じゃ相手にされないと思ったから、元海軍軍人であることを正直に打ち明けた。そして軍から支給された『護身用の一丁』を交換にと差し出し、土下座して頼んだんだ。そうしたら、なんとかわかってもらえたよ」
「………」
源は高橋の意外な良心に敬服しつつ、出し抜かれた心境に陥った。そして自分一人だけが海賊だったことに気づき肩を落とした。
敵艦や日本海軍の警備艦艇、大きなシケなどにも遭遇することなく航海は順調に続き、二日後の六月二三日の早朝に、能登半島の輪島沖に到達した。
その頃──、約一、五○○キロ離れた沖縄では、ちょうど同時刻(二三日四時三○分)に、沖縄防衛軍第三二軍司令官牛島満中将(五七歳)と同参謀長長勇中将(四九歳)が自決した。これに先立つ一○日前の一三日に、大田実少将をはじめとする海軍沖縄根拠地隊の首脳も自決していた。
開戦以来、日本国内で唯一戦われた凄惨な地上戦の、事実上の終焉である。
この戦いの際立った特徴は、犠牲者数の内訳にあった。死闘を繰り広げた日米両軍将兵よりも、非戦闘員であるはずの現地住民が最大の犠牲者となったのだ。戦後の公式記録による戦死者数は以下のとおりである。
日本軍(正規軍六五、九○八人、防衛隊二八、二二八人)………………………計 九四、一三六人。
米 軍(陸軍四、六七五人、海兵隊二、九三八人、海軍四、九○七人)………計 一二、五二○人。
現地住民(戦闘協力者五五、二四六人、非戦闘員九四、七五四人)……………計一五○、○○○人。
戦前の沖縄県の人口は、約四五万人。老若男女の別なく、赤ん坊から年寄りまで含め、実に三人に一人が亡くなった計算になる。これが、陸軍のいう「本土決戦の時間稼ぎ」のために犠牲となった沖縄県民の数…。「無惨」の一言に尽きる。
そんな南方の悲報は、日本海に浮かぶ小さな漁船に届くはずもなく、源は、近づく能登半島のまばゆいシルエットに、ひたすら目を奪われていた。
●死ぬことと生きること
「美しいですね」
田所の故郷「金沢」が、この半島の付け根にあることを思い出し、源はこの美しい景観とは似ても似つかぬ彼のいかつい風貌を思い浮かべ、邪念を振り払うかのように軽く頭を振った。
「どうする、上陸して散歩でもするか?」
しばらく黙ったまま海岸線を見つめていた源は、吹っ切ったように向き直り、高橋の気遣いを返上した。
「いえ、先を急ぎましょう」
源の一言を合図に、発動機は再びうなりを上げた。ゆっくりではあったが次第に小さく流れ去る半島を見送っていると、高橋が口を開いた。
「吉澤、戦争はどうなっているのかなぁ。日本海に敵の艦隊が現れないところを見ると、もう終わったのかなぁ」
「いや、国民が全部死ぬまで終わらんでしょう」
「しかし、戦争が終わっとらんのにオレたちが家に帰ったら、家族はどんな顔をするだろうか」
源は(もっともだ)と思った。良しんば家族は理解してくれたとしても、親戚やとなり近所から「敵前逃亡」の疑いを持たれる可能性は否定できない…。事実なのだから自分はいいとしても、家族が白い目で見られることは不憫でならない。源が反応に苦慮していると、高橋は構わずに続けた。
「オマエはいいよな、左脚に大きな傷跡があるから、『負傷して除隊になった』と一応の説明がつく。しかし、オレはそうはいかんからなぁ」
源はなおも先のことを考えた。(「負傷→除隊」で周囲に説明がついたとしても、やがて終戦を迎え原隊が高崎に帰還したら、おそらく調査のために憲兵が自宅へ来るだろう。何しろ「沖縄で行方不明になった有名な狙撃兵」ということになっているはずだから…)。
故郷への生還がほぼ見えて来たところで、次の段階の困難に直面し、源は悩んだ。
「そうだ! 戦争が終わって米軍が日本全土を占領し切るまで、どこかに隠れていればいいんじゃないか?」
高橋はそう自問すると、うなづきを繰り返し、納得したようすで発動機を止めた。途端にあたりを静寂が包み、遠くで鳴く海鳥の声だけが響いていた。操舵室から出て来た高橋は、源に煙草を進めた。二人は甲板に並んで座り、競うように白い煙りを吐いた。
「日本が負けて米軍に占領されたら、オレたちはどうなるんでしょうね?」
源のしんみりとした発言には反応せず、高橋は何かを思い出したように突然微笑み、顔を寄せて来た。
「そうだ、オマエが煙りじゃなくて心臓を吐き出すほど、びっくりする話をしてやろう」
「? 何ですか…」
訝しげに尋ねる源に、高橋はもったいぶるように子供のような笑顔をつくり口を開いた。
「オマエ、米国海軍のヴァンベルクという白人の中尉を知ってるな」
「! …あ、ああ」
「ハハハッ…、どうだびっくりしただろう」
源は一瞬ギクッとしたが、もはや恐れる物も失う物もないことを再確認するように辺りに視線を漂わせ、平静さを取り戻して尋ねた。
「なぜ高橋さんが彼を知ってるんですか?」
「実はな、オマエたちを救出した呂五五、つまりオレの乗艦の他にもう一隻、後続する潜水艦がいたんだよ。伊三六だ。結城艦長は、救出する直前にカッターから海に飛び込んだ男を、オマエが説明したとおりの『遺棄した死体』とは、はじめから思っていなかった。
オマエらが寝たあとに、艦長と副長とオレは協議したんだ。そして『本当に死体なら遺棄する必要はないはず、おそらく吉澤がかばって逃がした《生きた米兵》に違いない』という結論に達した。そこで艦長は、オマエに問い質すこともせず、戻るわけにもいかないので後続の伊三六に収容を依頼したんだ。何しろあの方は人道家だったからな…」
「…どうやって? あのときは無線封鎖していたはずでは」
「ああ、潜水艦どうしが作戦行動中に使用する短距離用の無線機があるんだ。むろん短距離用といえども無線封鎖中は本来使用禁止なのだが、艦長は敵兵を助けるためにあえて使わせた。ほぼ正確な座標がわかっていたため、ヴァンベルク中尉はその後すぐに発見され収容された。
伊三六には幸いにも英語を理解する連絡将校が乗っていたから、中尉を尋問し一連の事情を知ることができた。しかし、艦長が早い時期からオマエら二人の素性を見抜いていたのは事実だ。伊三六から報告が来たのは無線封鎖が解除されてからだったからずいぶんあとだ。通信兵だったオレが言うんだから間違いない。