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ゆきの谷

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 そこは、ちょうど黒焦げの荷車の前だった。源の足元に見覚えのある衣服の破片が落ちていた。それは二センチほどの、焼け焦げた小さな布辺だったが、青地に赤い縞柄模様がはっきりと認識できた。源はそれと気づき、その場に崩れ落ちた。そして、あふれる涙を拭おうともせず、狂ったように泣いた。
「…荷車のために戻ったのか。小倉へ帰るための荷車を護るために」
 源の号泣は高橋も巻き込んだ。小さな布辺をにぎりしめる左手を開いては見つめ、源は何度もしゃくり上げた。
「オレが溜め息をついたから、それを戒めるためにオマエは出て来たんだよな。ああ…、昨日のうちに小倉へ向かっていれば…」
 兵器博士の屈託のない笑顔が、哀しいぐらい誠実な素顔が、源の脳中を駆け巡り自身の気紛れを責め続けた。

●海賊の如く

 その後、ちょうど空襲から丸一日が経過した、なおも煙が燻る漆黒の夜、源は高橋に説得されてその場を離れれる決意をした。知花の布辺を大事にしまい込むと力なく立ち上がり、やっとの思いでフラフラと歩き出した。
「気をしっかり持てよ、何としても生きて故郷へ帰るんだろ!」
 高橋は源を励ましながら、北へ向かい博多湾を目指した。
「…いったいどこへ行くんですか?」
「港だ。関門海峡は米軍の機雷で封鎖されている。九州から出るには、ここから船で日本海を北東進するしかない。オレの故郷は山形県の鶴岡なんだ、船をかっぱらって国に帰る。オレは海軍だから地べたを這いまわるのは苦手だ。が、操船はお手のもんだからな」
「自分は群馬です」
「そうか、ならば新潟あたりで降ろしてやろう。一緒に来い」
 高橋の生還へのどん欲さに圧倒され源は我に返った。そして、自身の気紛れのために、故郷を目前にして無念の死を遂げた知花のためにも、何としても生きて帰ろうと考えた。そのためなら、泥棒でも何でもしてやろうと覚悟を決めたのだ。
 夜暗に紛れ、畑から枯れかけた野菜カスを盗んで腹を満たすと、二人は港への道を急いだ。行けども行けども焼け野原だった。まだ収容されていない黒こげの死体があちこちに散乱し、博多の町全体があらゆる異臭に被われていた。
 電気は寸断され街灯は全て破壊されていたため、かすかな月明かりと今だに燻る小さな残り火だけが、行く手を無気味に照らし出した。
「船なんて、簡単に盗めるものなんですか?」
「簡単ではないだろうが、オレは無線だけでなく機械全般に通じている。停泊している船があって、燃料さえ残っていれば何とかなるだろう」
「水や食糧はどうしますか?」
「とりあえずは船の確保に集中する。一旦福岡を離れ、別の町で調達しよう」
 高橋の言動には常に迷いがなく、一つ一つの動作にも信念のような一貫性を感じた源は、親父の口癖だった菱刈語録「決して二兎を追うな」を、まさにこの男は実践している…と、改めて感服した。「博多」ではなく、こだわりのように「福岡」と呼ぶ高橋に、海軍のこだわりのようなものを感じつつ…。
 港に到着した。
 桟橋の手前では、焼け出された者たちが少人数の集団をつくり、身を寄せ合っていた。高橋はそれらの人々には目もくれず、桟橋の裏手へ急いだ。夜のとばりが明けぬうちに決行しようと急いでいるのが源にも理解できたため、遅れないように必死で彼の機敏な背中を追った。
 倒壊した倉庫の裏まで来ると、そこはいよいよ真っ暗だった。高橋は立ち止まり、じっと目を凝らした。首をすくめて海面をなめるように見まわしていた高橋がぴたっと止まった。
「吉澤あったぞ、あれにしよう」
 そう言うと漆黒の海に近づいて行った。源はその方向に視線を向けたが、穂先きのような棒が何本か見えただけで、船体は確認できなかった。どうやら高橋は、その穂先とわずかに見えかくれする船体の一部だけで船種を識別したらしい。それは山川で乗せてもらった鮫島の漁船と同じような、小さな船だった。
 高橋は素早く操舵室にもぐり込み、早速準備を開始した。源は言われるまでもなく前部甲板に立ち、発見されぬよう祈りながら周囲を見張った。
「吉澤、ロープを外せ」
 源は糸満漁港を出港したときの仲里の動作を思い出し、ロープをはずし終えると岸壁を力一杯押し、船の離岸を助けた。それを見た高橋は源を誉めた。
「要領がいいな、まるで船乗りみたいだぞ」
 漁船はゆっくりと後退し、やがて発動機がポンポンポン…と鳴り出した。ちょうどそのとき、音に気づいたのか、軍服の一団が走り寄って来た。中の何人かの左腕には、白い布のようなものが巻かれていた。源は舌打ちをした。(まずい、憲兵だ!)。
 操舵室のある後方へ移動しようと振り向いたとき、高橋の声がした。
「奴ら、何か言っとるぞ。オマエも大声で言い返せ、どうせ発動機の音で聞き取れんはずだから、何でもいい。ただし、堂々と胸を張って言うんだぞ!」
 憲兵の一人は、拳銃を抜き取りこちらに向けるような動作をした。源は言われるままに怯むことなく胸を張り、こぶしまで振り上げてがなりたてた。長々と続く源の大声に圧倒されたのか、暗がりの中の憲兵たちは呆然と立ちすくみ、動く気配はなかった。やがて船は弧を描いて反転し、憲兵たちから遠ざかって行った。幸いにも構えたらしい憲兵の拳銃が火を吹くことはなかった。
 鮫島の船よりいくらか速かった。軽快な発動機音を轟かせて、漁船は漆黒の博多湾を北上して行った。
「ずいぶんと早口だったようだが、いったい何と言ったんだ?」
「姉から教えてもらった小倉百人一首を片っ端から詠んでました」
「! ……和歌だったのか…」
 昨晩、焼夷弾の高熱にあぶられ、この日も朝から走りまわっていた源の身体は四六時中ほてっていたため、夜の潮風がひときわ心地よかった。(この心地いい風を知花にも味合わせてやりたかった。…さぞや、熱かっただろうに…)。
 「水と食糧の調達は、孤立した島がいいだろう」という高橋の提案で、博多港から北東へ三五キロほどの大島へ立ち寄った。
 高橋は軍服を脱ぎ「遭難しかけた漁師」を装って住民に接触し、水と燃料を分けてもらうことになった。どんな交渉が展開されたのか源は知らなかったが、ないないづくしのこのご時世に、二つ返事で快諾してくれるお人好しがそう都合よく居るとも思えず、高橋が懐に隠し持つ軍用拳銃にモノを言わせる可能性は大いにあると考えた。
 同じ頃源は、施錠のない民家の庭先にあった魚介の干物や、山の中腹の畑から野菜を拝借し、船に運んでいた。
 (もはや海賊に成り下がったか…)。源は家族の顔を思い出し、落胆の溜め息をつきかけたが、知花の戒めを思い出し、その溜め息を飲み込んだ。
 何度かの往復で慌ただしく物資を積み終えると、二人は逃げるように大島を発った。一時間ほど航行し東の空が明るくなってきた頃、高橋は船を止めて自身の成果である燃料と水のタンクを数えた。
「こっちは思いのほかうまくいった、水と燃料は十分だ。そっちはどうだった?」
 源も得意げに「収穫」を披露した。
「…すごいな、これなら山形まで補給なしで行けるぞ! オマエもやるときはやるな、この悪党」
 源は少々むっとした顔をし、言い訳がましく解説した。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋