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ゆきの谷

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「そうですよね、こんなときはお金よりも食べ物の方が断然ありがたいですものね。第一、お金の使い方なんて、もう忘れちゃいましたよ」
 二人は市場をあとにすると、中心街を避けるため、一旦南に向かって歩き出した。源は周囲に憲兵がいないか目を光らせながら歩を進めた。
 煽動家や不穏分子を取り締まるために町中に潜伏する憲兵は、軍服に白い腕章を着けたお馴染みの身なりではなく、私服姿であることが多いため一般人との識別が難しく、警戒を必要としたのだ。
 なにしろ、海軍の潜水艦乗りにも知られていた自分だから、鮫島から譲り受けた私服による偽装に頼り、油断することはできないと考えたのだ。
「吉澤さん、自分は一刻も早く小倉に帰りたいです。もう薬院を過ぎ平尾まで来ましたから、ここらでせめて東に方向転換しませんか? この辺からでしたら、博多駅の南側を抜けられるはずです」
 まるで都会のにぎわいを楽しむかのように、のんびりと歩を進める源にたまりかねた知花が、はやる気持ちを抑えつつ気忙しく左方向を指差した。
「…うん。そうだな、…そうしよう。オマエ博多の町も詳しいんだな」
「はぁ、小倉から博多は近いですからね。少なくとも群馬より…」
 気が遠くなるほど遥か彼方にある上州の地をうすぼんやりと思い浮かべ、源は(確かに…)と心の中で淋しくうなづいた。

●謎の施設「振武寮」

 二人が憲兵を警戒しつつ、久しぶりの都会を楽しむように散策気分で歩いて来た薬院地区の一角には、「振武寮」という陸軍第六航空軍司令部内におかれた秘密の施設があった。ここは、一度出撃したのちに何らかの理由で帰還した陸軍の特攻隊員を、再出撃にそなえて収容する施設だった。
 しかし実態は──、
 出撃→必殺を本懐としていた特攻隊員に戻って来られては、それがいかなる理由であれ隊全体の士気低下をまねき、大本営や海軍、ひいては国民からも疑念の目を向けられることになる。これを恐れた陸軍航空隊が秘かに設置した、陰惨な隔離収容所だったのだ。
 施設内では、彼らは執拗に責められあるいは殴られ、「卑怯者」「クズ」と罵声を浴びせられながら反省文を書かされ続けるなど、堪え難い苦痛を強要されたという。国や家族のために命を捧げようと、一度は悲壮な覚悟を決めて出撃した彼らの多くが、機体の故障や敵艦が発見できなかったなどの不可抗力により、やむを得ずに戻ったケースが少なくなかったというのに。
 その背景には、「理由のいかんを問わず、戻って来た者は憶病者、国賊!」と決めつける、相も変わらぬ陸軍の横暴さと狂気の姿勢が見て取れる。
 散々に追い詰められたあと、再出撃の機会を与えられた者の多くは、「こんな理不尽な惨い扱いを受けるぐらいなら、今度は何が何でも絶対に死んでやる!」という屈折した決意を抱かざるを得なかったという。まさに軍の思惑どおりであり、知られざる悲劇が繰り返された地獄の施設だったのだ。
 振武寮の秘匿ぶりは徹底していたと見え、当時この施設を知り得た者は限られたごく少数の関係者だけだった。資料も多くが処分もしくは厳重に隠匿され、生き残った被収容者たちも堅く口を閉ざしてしまったため、戦後もこの施設はほとんど知られることがなかった。

 よもや自分たちの足音が聞こえるほどの場所に、このような陸軍の秘密施設があるなどとは夢想だにせず、二人の軽快な歩調は薬院地区をあとにした。
 東進を開始して間もなく、ガラクタ置き場のような大きなゴミの山が目に入った。知花は早速、走り出した。
「もうすぐお昼ですから、飯ごうの代わりになるものを見つけてきます。吉澤さんは待っていてください」
 昼食は、思いもよらぬ「ご馳走」となったため、二人ともご機嫌だった。
 源は知花を見送ると、路地を少し入ったあたりの目立たぬ木陰に拠点を構え、さっそく焚きつけに使う紙屑や小枝を収集し、即席かまど用の大きな石を探した。
「吉澤さん、これ見てください。」
 ほどなく戻って来た知花の両手には、ベコベコにへこみ泥汚れのついた飯ごうと、錆びかかった文化包丁、箸代わりの棒四本がにぎられていた。
「金属が貴重なこのご時世なのに、まさに奇蹟だな」
 源が破顔すると、知花も嬉しそうに返した。
「十分使えますよ、洗ってきますね。すぐ東に薬院新川があるはずですから…」
 そう言うと、背中を踊らせながら川へ向かった。
 源の準備も完了し知花が戻ると、楽しい野外炊飯が始まった。「野外炊飯」…、満州から沖縄へ至る源の長い戦場生活では、戦況が許す限りむしろ日常的に行われていたことだが、当然のことながら、今回だけは特別だった。それは、まずここが日本本土であること、米と梅干だけでなく魚の干物まであること、そして何といっても、銃砲弾が飛来する心配がないことがその理由だった。
 飯ごうのふたがグツグツと震えだし、干物が香ばしい匂いを発しながらめくれ上がると、二人の豪華な昼食がはじまった。
「旨いですね、吉澤さん!」
「旨いな、知花」
 二人は何度もそんな言葉を挟みながら、もの凄い勢いで食べまくった。目立たぬ場所とはいえ、道路を行き交う人々はただ無関心に通り過ぎ、二人に気づく者はほとんどいなかった。その通行人の中には、九州各地に揚陸されて博多に集まってきた兵隊服姿のままの復員兵も少なくなかった。
「ごちそうさま。あーっ、もう終わっちゃった。至福の時間は短いですよね、吉澤さ…」
「! シー…」
 源の顔に緊張が走った。知花は驚き、源の黒目が動く方向へ視線をゆっくり移動させた。遠巻きにこちらのようすをうかがっていた兵隊服姿の三人組がゆっくりと近づいてきた。源は彼らから死角となる位置でそっと錆びた文化包丁を手に取り袖の中に隠した。それを見た知花は、一層緊張感を高めた。
「よう、兄さんたち、さっきは世話になったなぁ」
 源と知花はゆっくり立ち上がり、三人に対峙した。前の二人は陸軍兵服で、よく見るとその一人は先ほどの巾着袋泥棒だった。後ろに構える一人は海軍兵服だった。
 源は表情を変えることなく、緊張状態を維持しつつも心中で胸を撫で下ろした。実は、天神の市場を離れてからずっと見張られていることには気づいており、秘かに警戒していた。ただ視界の端でしか見ることができなかった人影を、憲兵ではないかと心配していたのだ。
 後ろの海軍兵はわからぬが、前方の二人は銃器は持っていないようだった。ただ、巾着袋泥棒がポケットに何か隠し持っているようで、しきりに脅しをかけるしぐさをくり返していた。その手首の動きと角度から、小型の刃物のようだった。

●海軍通信兵

 ジワジワとにじり寄る陸軍兵二人の圧力にたまりかね、源が口を開こうとしたそのとき、突然、後ろの海軍兵が大声を発した。
「あれー、吉澤? 吉澤上等兵じゃないか」
「! …?」
 源と知花は仰天し、海軍兵を凝視した。
「オレだ、高橋。…って言ってもわからんな、潜水艦の…」
「ああ! レシーバーの通信兵…」
 源は、両手で耳を被うしぐさで叫んだ。
「その格好は何だ? 吉澤に似てるなぁと思って見ていたが、そんな服を着てるからすぐにわからなかったよ」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋