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ゆきの谷

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 二人は山川町を目指して歩いた。指宿へ向かって北上して来た海岸線を今度は逆に南へ下った。相変わらずの潮風が心地よかったが、知花はそれと気づかずに空のぐるりを見まわしていた。源には彼が何を探しているのかすぐにわかり、憂鬱な気分になった。
 子どもだと思っていた知花も、負い目を背負っていたのである。仲間を裏切り逃げ帰って来た負い目を…。
「あっ、そうだ。吉澤さん、林願寺で昼食をご馳走になったとき、億の部屋に布製の学童カバンがかけてあったの、ご覧になりました?」
 知花の突飛な話題に、源は少し戸惑った。
「学童カバン? いや、気がつかなかったなぁ」
「使い古された感じからして、多分、山元さんが使っていたものでしょう。そのカバンには、英語でイニシャルが書かれていました」
 源は驚き、血相を変えて振り向きざまに知花の両肩をつかんだ。
「本当か! 何と書いてあった?」
 源は興奮し、問い詰めるように知花に迫りながら、「Y・I」でないことを念願した。
「イニシャルは、Y・Hでしたよ」
「…H」
 知花を見据えたまま、源はほっとして大きな溜め息をついた。
「吉澤さん、良くない癖ですよ、その溜め息。右手の指のタコをいじるヤツはともかく、溜め息の癖は直した方がいいと思います」
 小姑のようにうるさく源の癖を諌める知花には、「済まん」というポーズで応えながら、源は心の底から安堵し喜んだ。山元の元の苗字が「石狩」でないことだけは、はっきりしたからである。

●博多捕物帳

 山川町に到着した二人は、ほどなく鮫島元漁師を見つけ例の手紙を手渡した。鮫島は山元住職と息子からの手紙にいたく感激し、二人を大歓迎してくれた。出航準備のため、その日は鮫島宅に宿泊することになった。
 夕食だけでなく風呂まで拝借し、おまけに「自分と息子の古着だが」と、洗いたての下着を含む、清潔な着替えまで用意してくれた。おかげで二人は、偽装用の糸満製漁師服からも解放され、心から蘇生することができた。知花は灰色の開衿シャツを源に手渡し、自身は派手な赤青の縞柄シャツを着た。
「やっぱり自分のような若者には、こういう派手な服が似合うんですよ」
 源はなんとなしに年寄り扱いされた気がして閉口した。
 その後、鮫島は燃料の確保に奔走し、丸三日を出航準備に費やした。源と知花はそのほとんどを寝て過ごし、蓄積していた戦場での疲労とストレスの放出に努めた。
 決行前夜、鮫島は二人を前に神妙な口調で話し出した。
「小さな船ですから、本来なら比較的穏やかな瀬戸内ルートを北上すべきですが、豊後水道と関門海峡には米海軍が網を張っている可能性が高いので、念のため西の東シナ海ルートを行くことにしましょう。
 奴らが小さな漁船に干渉するようなことはないと思いますが、お二人は山元住職とつ息子からおあずかりした大事な方々ですから、何かあったら大変です。用心に越したことはありません。所要時間は概ね二○時間ぐらいの予定ですが、よろしいですか?」
「お世話になります。自分らは元陸軍兵です。海のことはわかりませんので、鮫島さんにおまかせします。…ときに、鮫島さんは、以前はやはり海軍に在籍されておられたのですか?」
「ええ、それが何か?」
 源は(やっぱり)と大きくうなづいた。しかし推測の根拠は、源に注目する鮫島や知花の予想を見事に裏切るものだった。
「自分は、よく海軍の関係者に助けられることが多いので、今回もきっとそうだろうと」
「………」
 張りつめていた場の空気が…、シラけた。
「…明日の出発は早いので、今夜はゆっくり休んでください」
 鮫島が準備の続きに取りかかるため、源の戯言を無視して退席すると、早速知花が愚痴った。
「わけのわからんこと言わんでください。…それにしても、博多ではなく小倉までなら瀬戸内経由で企救半島まで乗せてくれればいいわけで、関門海峡など通らずもっと早く行けるのに…。海軍軍人は用心深いんですね」
 源は無言のまま、ばつ悪そうにすごすごと用意された布団にもぐり込んだ。
 翌早朝に山川を出発した漁船は、三人が危惧した台風の接近を受け、大シケとなった天草灘で波浪に翻弄されたが何とか切り抜け、翌六月一九日朝、無事、博多に到着した。
 下船の際に「干しイモ弁当」まで持たせてくれた鮫島に、二人は最大級の感謝を述べ、さらに山元住職とご子息への深謝の言葉を託して船をあとにした。
「小倉はもう目と鼻の先です。急ぎましょう」
 嬉々としてはしゃぐ知花に、源が水を差した。
「知花、はやる気持ちはわかるがそう慌てるな。博多に来ることなど、おそらく二度とないのだから、ゆっくりしていこうや」
 町中に瓦礫はなく、源は久方ぶりの活気あふれる都会を目の当たりにし、少々舞い上がっていた。
「でも…」
 渋る知花の愚痴など気にする様子もなく、深呼吸と同時に大きく身体を伸び上がらせた。
「いいじゃないか、博多もてっきり空襲にやられて焦土だと思っていたが、こんなににぎやかなんだから」
「……」
 なおも知花は悲し気な眼差しで源を見つめた。
「吉澤さん、三つ目の王様命令です。絶対に生きて家に帰ること。二人ともです」
 すかさず源がたたみかけた。
「!?…おいおい、ここは物騒な敵などいない本土だぞ。しかも九州、オマエの故郷のすぐ近くだ。三つ目の命令はすでに保証されているようなものだろう、くよくよするな!」
 知花はうなだれ、渋々源のうしろをついて行った。天神の市場に差しかかると、落ち込んでいた知花の目が輝いた。そこには、戦地で何度となく夢見た白米や肉、魚などがところ狭しと並べられていたのだ。
「おいしそうですね、食べたいなぁ」
 むろん、現金を持たぬ二人は、よだれを拭いながら市場の品々を見てまわることしかできなかった。
「泥棒ー、誰か捕まえて!」
 ご馳走の山を前にのぼせ上がっていた二人の耳を、老婆の悲鳴がつんざいた。振り返ると、兵隊服姿の男が赤い巾着袋を抱えて走っていた。知花はとっさに反応して素早く追いかけ、脚から滑り込んで男の足首を蹴り飛ばした。男は走っていた勢いで前方へ飛ばされ、腹這いに倒れ込んだ。それを見た源はすかさず走り寄り、巾着袋を男からむしり取った。息を切らせて追いかけて来た老婆は、その一部始終を確認すると安堵し二人に頭を下げた。
「ありがとうございました。この巾着には五日分の売り上げが入っています。本当に助かりました」
 早口にそう言うと、二人を元居た場所に案内した。兵隊服姿の男は、口惜しそうに歯噛みして退散した。
「復員兵には気をつけろとよく言われていたのですが、ついうっかり隙を突かれてね、ありがとさんね。…これはほんのお礼です」
 老婆はそう言うと、かごに白米や魚の干物、生野菜、漬け物などを無造作に投げ込んで知花に手渡した。
「ええっ、…こんなにたくさん。ありがとうございます!」
 知花は満面の笑みでかごを掲げ、意気揚々と戻って来た。源もやや離れた場所から老婆におじぎをした。
「吉澤さん、二人で腹一杯喰っても三、四回分はありますよ。嬉しいなぁ」
「人生経験の豊富なああいう方は、相手の成りを見て『何が必要か』、ちゃんとお見通しなんだろうな」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋