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ゆきの谷

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「ここは寺だし、今は国家存亡をかけた決戦の真只中じゃ。過度な期待はするでないぞ」
 二人の向かいに座った老人は、笑顔でそう言いながら修行僧が運ぶ数々の食器を差し出し前に並べ直した。
 本殿では無言を通した知花が、仰々しく合唱し嬉しそうに山元老人に言った。
「ありがとうございます。助かります」
「知花さんは、苗字から察するに沖縄の方だと思っておったが、小倉とは意外だな」
「あっ、はい。博多に出稼ぎに来ていた沖縄出身の父が、小倉の兵器工廠に徴用されて婚姻し、自分はそこで生まれたものですから」
 老人は大きくうなづいたまま、表情を曇らせた。
「戦争に翻弄されるのは、何も前線の将兵ばかりではない。軍需工場への徴用や、疎開などで家族と離別せざるを得ず、どれだけの人々が辛い思いをしているか。銃後の護りも決して楽ではないですからのう…」
 二人は老人の話に相づちを打ちながら、雲輪寺とほとんど変わらぬ質素な行者料理を、口に運んだ。ふっと気づくと、左手の開け放たれた窓の向こうに広大な墓苑が見えた。
 山元が「偶然発見した」という姉の墓は、おそらくこの中にあるのだろうと源は思ったが、それを詮索することはあえて放棄することにした。家の名誉を守るために秘匿していたという事情から、墓石に苗字が記されているはずはないだろうし、それより何より、わざわざ源のために自身の心を痛めながら語りたくない過去を語ってくれたこの老人への、せめてもの礼儀であると考えたからである。
 遅い昼食が終わり、見送りに出てくれた老人と二人は、門かぶりの松の老木を従えた山門の下で別れを惜しんだ。
「住職、これは自分の母の実家の住所です。東京の住居は空襲でやられている可能性が高いので、田舎の住所を書いておきました。洋作さんが帰還されましたらお渡しください。再開を楽しみにしていますと…」
 そう言うと、源は新治の母の実家「烏丸家」の住所を記した紙片を老人に渡した。(群馬北部の地理など無縁であろう九州南部のこの老人が、例え《逃亡先》の「水上」の地名を知っていたとしても、「新治」の住所からそれを想像することはできまい)…と源は考えたのだ。
 代わりに林願寺の住所を書き留めた紙をポケットに押し込んで歩き出した。
「小倉まで二人は道中一緒じゃな。して、どうやって行きなさるつもりじゃ?」
 老人の問いかけに、二人は脚を止め振り向いた。
「……それはまだ」
 そのとき若い修行僧が小さな紙片を手に、二人を追うように山門の外まで出て来た。
「では山川の港へ行きなされ。そして漁師の鮫島という男を探し、これを渡すとよい」
「…?」
 老人は修行僧から受取った手紙のような二つ折りの紙片を、そのまま源に手渡した。二人が開いて中をのぞき込もうとしたとき、傍らの若い修行僧が口を開いた。
「山川の鮫島というのは自分の父です。元は漁師なので粗末ではありますが小さな船を持っています。
 山元住職は我々親子にとって恩人なので、住職の頼みごとは命に代えてもかなえてくれるはずです。漁船だとほぼ一日かかりますが、博多までなら陸路よりいいかと思いまして…。ご無事を祈念しております」
 二人は手紙に集中していた目線を瞬時に上げ、老人と修行僧に感謝の眼差しを向けた。
「ありがとうございます。何から何まで世話になり、この御恩一生忘れません」
 源は双眼を輝かせて礼を述べ、深々と頭を下げた。わずかな静寂ののち、二人はゆっくりと歩き出した。山元老人と修行僧は山門の下に佇立したまま、いつまでも惜別の眼差しで見つめていた。
「いい方ですね。あの方を見ているうちに、仏の道へ入ってみたくなりましたよ」
「坊さんか、いいんじゃないか。小太りのオマエには、おそらくよく似合うと思うよ。しかしこの手紙、いつ用意したんだろう」
「多分、食事中でしょ。…小太りは余計ですけどね!」
 知花は目を釣り上げて怒ってみせた。
「住職は、『山元さんの前の苗字は、自分からは教えない』とか言ってましたけど、本当はぼけちゃって覚えていなかったんじゃないですかね」
 不謹慎な知花の一言に、源は図らずも笑ってしまった。
「そんなことはないだろう。…そう言えば、亡くなったオレの母方の婆さんは、最後は本当にぼけちゃって、散々だった。家事と畑を手伝っていたはずの姉のことを『人助けがしたいからと言って村の診療所で働きだした』なんて近所の人にしゃべりまくり、騒ぎになったことがあったんだ。あのときの婆さんに比べたら、あのご老人はかくしゃくとしていたじゃないか。ありがたいことに、北九州までの段取りまでしてくれて…」
「いやだなぁ、本気にしないでください。冗談ですよ…」
 南九州の初夏は沖縄にも劣らぬほど暑く、笑いを交錯させて歩く二人の額は、さわやかな汗で被われた。源はその汗を拭いながら次第に高まっていく石狩と越智への関心と疑惑の念を、拭い切れないでいた。
「しかし、助かりましたね。鉄路はおそらくダメでしょうから、自分は小倉まで徒歩で帰る覚悟を決めていました。。四○○キロを歩くことを考えたら船は天国ですよ」
 知花の感想に誇張はなく、前述のとおり大きな町は、ほとんどが空襲の被害にあっていたため、鉄道は事実上麻痺状態となっていた。また、二人は敵前逃亡の身であり、瓦礫とかした町を警備する憲兵の目も気にしなくてはならない。陸路による北上は相当な危険と困難が予想されたのだ。
「もし徒歩だったら、山に入るしかなかったでしょうね」
「おお、山なら食糧だって見つけやすいし、よかったんじゃないか」
 知花は源をにらみ、何度も大きく首を振った。
「脊梁山脈を縦断するとなると、行程も平地の倍以上かかるし、それなりの装備も準備も必要になります。…おそらく無理だったでしょう」
 源は理解できないようすで、脚を止めて詰め寄った。
「…なぜだ? ここは九州だろう。今は夏だし、実際にこの暑さだ。雪深い八甲田山に入るわけでもない、たかだか一◯日前後のハイキング登山だ。三、○○○メートル級の山々が連なるビルマのジャングル行軍にくらべたら、どうってことないじゃないか」
 知花は再び源の顔をにらみ、軽蔑するような表情を形成した。
「九州山地は確かに二、○○○メートル足らずですが、甘く見てはいけませんよ。意外と知られていませんが、南国宮崎でも五ヶ瀬村あたりの山奥では晩春まで雪が降るぐらいですから」
「宮崎で雪が? 本当か」
「それに、この時期の九州は台風銀座と呼ばれています。例え一、二週間程度の行程だったとしても、もし山奥で直撃を受ければ大変です。糸満を起って以来今日まで台風らしい台風が来なかったことの方が不思議なぐらいなんですから」
 知花の暴風雨並みの勢いに圧倒され、源はトーンダウンせざるを得なかった。
「それは奄美の漁師も言ってたなぁ。『台風が来なくて本当に運がよかった』と…」
 源は知花の解説に納得し、背筋が寒くなる思いに襲われた。もし山元住職が船の手筈をとってくれなかったら、南国九州で思いもよらぬ、嵐の中の雪中(?)行軍を強いられた可能性があったからだ。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋