ゆきの谷
源は、この食事を口にする資格について、心に一点の曇りもないわけではないことにいささか躊躇し、胸の内を明かしたのだ。
「キミの目だよ。汚れのない澄んだ美しい瞳だ。些細な嘘はつけても、人をおとしめるような大きな嘘はつけん男の目じゃ。それから、イクサ帰りの人特有の『気』を感じたのだ、概ね言うとることに嘘はないだろうと…」
源は箸を持ったまま、なおもしばらく老僧を見つめていたが、思い出したように口を開いた。
「自分はビルマでお世話になった、山元洋作曹長のご実家を探しています。指宿の寺としか聞いていないのですが、心当たりはございませんか?」
老僧は微笑み、すぐに応えた。
「…ああ、よく知っとります、洋作クンのこともな。山元住職には、私も世話になっとりますから。腹ごしらえが住んだらすぐにご案内しますかな」
源と知花は顔を見合わせて微笑んだ。
「世話になりついでに、よろしくお願いします。行き方の略図で結構ですので…」
源は深々と頭を垂れ大きく一つ深呼吸をすると、ようやく善に箸を伸ばした。
「ときに、キミは何歳なのかね」
「二二です」
「とても見えんな。軍の規律がそうさせたのか、はたまた戦争がそうさせたのか、私にはわからんが、その落ち着きと立派な受け答えは、見上げたもんじゃ」
源は恐縮しながら何度も会釈し、質素な行者食をほうばった。
「して、洋作くんは…、戦死されたのですか?」
老僧の妙な固さの理由がわかり、源はやんわりと微笑んだ。
「いいえ、曹長とはビルマを離れた一年前からお会いしていません。おそらくお元気だと思います」
「…そっ、そうですか、それはよかった。ワシはてっきり山元さんの元へ、悲報を届けに来られたのかと思いまして」
食事が済むと二人は丁重に礼を述べ、修行僧が書いてくれた略地図を受取って寺をあとにした。
「作戦大成功でしたね、吉澤さん。山元さんのご実家の寺を一発で射止め、おまけに朝食までご馳走になってしまうんですから…」
源は老僧が何気なく口にした言葉、《…軍の規律がそうさせたのか、はたまた戦争がそうさせたのか…》が、やわらかい心の側壁に突き刺さっている感触を覚えていたが、知花の言葉で頭を上げ白い歯をこぼした。
「本当に、運がよかったなぁ。こんなにうまく行くとは思わなかったよ」
二人は略地図に示された通り、鹿児島湾に突き当たって海岸線を北上した。ビルマを離れてペリリュー島へ向かったとき以来お馴染みになった潮風にあたり、源は気持ちよさそうに大きく海の香りを吸い込んだ。
●零戦(零式艦上戦闘機)
「あっ、鹿屋から飛び立った特攻隊ですね」
知花の言葉に気づき見上げると、一○数機の零戦が不釣り合いなほど大きな爆弾をぶら下げて、海上を南下していた。
源は、剥ぎ取ったはずの階級章の跡がうずくような感傷に見舞われ、思わず左手で襟元をにぎりしめた。次の瞬間、となりに佇立する知花が零戦に向かって敬礼した。源は気づかなかったが、それは無意識の内に動かしていた自分の右手を見て知花が真似た動作だった。固まった右手を解きながら、その知花が口を開いた。
「そう言えば、零戦の『零』って何のことなんですかねぇ」
「何だオマエ、兵器博士のくせにそんなことも知らんのか!?」
源は勝ち誇ったかのように知花を見下ろし、大げさに胸を張って続けた。
「我が国には、明治・大正・昭和という元号のほかに、神武天皇即位の年(西暦紀元前六六○年)から数える『皇紀』という紀元があるんだ。零戦が誕生した昭和一五年は、ちょうど皇紀二六○○年にあたる。だから下二桁の○○から『零式』艦上戦闘機と名付けられた。ちなみに零戦とトリオで活躍した九九式艦上爆撃機は、その前年の皇紀二五九九年製、九七式艦上攻撃機は皇紀二五九七年製だ…」
──三菱の若き天才技師、堀越二郎氏が心血を注いで完成させた傑作機「零戦」は、洋の東西を問わず、格闘戦闘機の最高傑作としてあまりにも有名である。その前身とも言える「九六式艦上戦闘機」は、それまで欧米機の模倣に過ぎなかった日本の軍用機史に燦然と輝く、記念碑的「純国産傑作機」だった。この機体も三菱、堀越二郎氏の設計である。
零戦(正式名称=三菱零式艦上戦闘機)は、九六式艦戦の後継機として昭和一二年五月に海軍より、三菱重工と中島飛行機(現・富士重工)に競作の要求仕様書が公布されたが、無謀とも思えるあまりに高い性能要求に驚き、「実現不可能」と即断した中島飛行機は試作設計競争を辞退してしまう。しかし堀越技師はこれに対してひるむどころか九六式艦戦の設計時以上に闘志を燃やし、前作を遥かに超える新基軸、最先進技術を駆使してこの難関に挑んだ。
当時まだ安定性が疑問視されていた「定速プロペラ・システム」の実用化、「引き込み式尾輪」の採用、「紡錘形密閉風防」の考案、「超々ジュラルミン(ESD)新素材」の導入、「沈頭リベット」の工夫などがそれである。
かつてない困難な作業に逡巡と試行錯誤の繰り返しが続いたが、ついに堀越技師の執念が実り、昭和一四年八月下旬に完成。同年九月一四日、「十二試艦上戦闘機」の制式名で海軍に引き渡された。さらに小改良が加えられた後、発動機を三菱空冷複列星型一四気筒「瑞星」(七八○馬力)から、中島空冷複列星型一四気筒「栄」(九四○馬力)に換装され誕生したのが、「零式艦上戦闘機一一型」(真珠湾奇襲などで大活躍した初期型)である。
この機体は、無類の飛行・旋回性能と長大な航続距離(低燃費)、強武装(両翼内に二◯ミリ機関砲)により、出現当時の英米国製ライバル機を完全に凌駕していた。また、九六式艦戦で貴重な実戦経験を積んだ多数のベテラン搭乗員にも恵まれ、太平洋戦争の緒戦では無敵を誇った。特に、戦後世界的なベストセラーとなった「大空のサムライ」の著者であり、屈指の撃墜王として勇名を馳せた坂井三郎海軍中尉が大活躍した機体として特筆されている。ちなみに、著書「大空のサムライ」は全世界で愛読され、後のイラク空軍ではアラビア語に翻訳された本書の携帯を、全パイロットに義務づけた(二○○四年八月一七日付の毎日新聞国際面より)という逸話が残っている。
昭和一七年七月、アリューシャン列島での作戦中に、同諸島のアクタン島に不時着したほとんど無傷の零戦が米軍に鹵獲される事件が起きた。米国ではこれを「アクタン・ゼロ」と呼び大騒ぎとなった。本国へ持ち帰り徹底調査した米国の技術者たちは、本機の優れた機体設計と工作技術の先進性に驚嘆したという。
その前後から次々と登場した米軍戦闘機群は、どれも圧倒的な物量に裏付けられた高性能大出力発動機と強武装の秀作ぞろいだったが、これら新たに生み出された戦闘機の設計思想には、少なからず鹵獲・調査された零戦の影響が反映されていたという説がある。
真偽のほどはともかく、この頃からさすがの零戦も苦戦を強いられ、その後三二型、二二型、五二型、五四型、六三型と精一杯の改良を続けたが、津波のように押し寄せる優秀な米軍機に圧倒され、最後は爆弾を取り付けられた特攻機となり果て、南の海に消えて行ったのである。