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ゆきの谷

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「仲里さんが与論島での別れ際に、『今後も長い船旅が続くから』と持たせてくれた漁具の一部と、物々交換で分けていただいたんだ」
 盗みでも働いたのかと心配した知花は安堵の笑みを浮かべ、サツマイモにかぶりついた。二人はつかの間の食事を楽しみ、瞬時にそれを終えるとまた歩き出した。やっとの思いで実現した「本土への生還」の喜びをかみしめながら、今生きていることを確かめるように一歩、また一歩と脚を動かした。

●名もない寺で

 ようやく指宿に到着した。すでに陽は傾き夕刻になっていた。途中で立ち寄った指宿線の始発点である山川駅には、汽車はおろか人の気配すらなく、結局二人は枕崎から指宿までの約四二キロを徒歩で踏破したのである。
 鹿児島県は町の大小を問わず空襲の標的となり、その損害も小さくなかった。二人が通過して来た山川町も、長崎に原爆が投下された八月九日に襲われ、二二人の犠牲者と約三、○○○人の罹災者を出している。
 特攻の基地として有名だった大隅半島側の鹿屋市は、三月一八日を皮切りに四◯回もの空襲に見舞われた。ほかに垂水町(昭和二◯年三月五日)、加治木町(同年三月一一日)、鹿児島市(同年三月一八日以降八回)、西之表町(同年三月一九日以降五回)、東市来町(同年四月三◯日)、川内市(同年七月二七日以降四回)、串木野市(同年八月九日以降二回)、阿久根市(同年八月一二日)。鹿児島県内だけで、罹災人口は一六八、○○○余人におよんだ。
 ところが周囲の市町が焦土と化す中、指宿は奇跡的に空襲の猛威を免れ、戦前からのたたずまいを残していた。
「その、山元さん宅の手がかりは何かあるんですか?」
「寺だ。寺の住職に育てられたと聞いている。それから寺の境内には額に傷を持つ『ヤタロウ』という犬がいる、生きていればだが」
「犬? …何という寺ですか?」
「知らん、だからこれから探すんだ」
「…指宿中の寺をまわるというのですか?」
 源は、不満げに口を尖らせて立ち止まった知花の方へ向き直り、肩を軽く叩いた。
「少なくともオレには、漁師姿の怪し気な二人組を乗せてくれる船を探すよりは、はるかにたやすいと思えるが…」
 知花は何も言わず、人差し指と中指の二本を突き立てた。
「吉澤さん、今夜は野宿したくないんですが」
 源は考え込み知花から目をそらしたが、次の瞬間、妙案を思いつき笑顔を向けた。
「! これで二つ目だな、王様。 『一宿一飯の恩義』ならぬ 『代償』は覚悟しておけよ」
 そう言うと源は、歩行速度を速め四方八方に首を動かし、何かを探しはじめた。そして二○分ほど歩き、古寺らしきうらびれた小さな建物を発見した。
「まさか、ここに聡明な住職や犬がいるとは思えませんが」
「今夜の寝床だ。ただし、この手の無人の古寺は、付近にある大きな寺の住職が管理を兼ねている場合が多い。だから巡回して来た住職に叩き起こされて、説教されるかも知れんからそのつもりでな。それが『一宿一飯の代償』だ」
 知花は説明どおりに理解し、しばらく憮然としていたが、はっと気づき感心した。
「なるほど。寺を探すのではなく、ここに泊まって『寺の案内人』がやって来るのを待つというわけですね」
 源は白い歯をむき出してニヤリと笑い、ヤブ蚊の集団を手で払いながら得意げに言った。
「そういうことだ。まさかそれがズバリ『尋ね人』なんて都合良くはいかんと思うが、いくつもの寺の面倒を見ている僧侶ともなれば、地元の有力者である可能性が高いだろう。いい情報が得られるかも知れんからな」
 板のきしむ音をたてながらカビ臭い建物の中に入ると、知花が残った半かけのサツマイモを取り出し、二人で分け合った。
「山元曹長ってどんな人だったんですか?」
 先に仰向けに横たわった源に、知花はゆっくりと身体を寝かせながら質問した。源は、ビルマの野戦病院での出来事や一夜をともに過ごした川沿いの洞窟での会話、メイミョー基地に到着したあとのようすを詳しく語った。
「なるほど、確かに変わった人ですね。自分もお会いしたいです」
 知花の、おもしろ味のない形式的な感想を合図に、二人の意識はまどろみの世界に吸い込まれていった。

 ──「何だキサマら! 起きろー」
 激しい怒声に仰天し、まるで蹴り飛ばされたかのように二人は飛び起きた。
「何者だ!」
 入口付近に仁王立ちしていたのは、丸刈りで小太りの老人だった。僧侶のいでたちではなく甚平姿だったが、特徴的な大きな数珠が老人の生業を象徴していた。
 源は落ちつきはらって、前もって用意しておいた台詞を淡々と並べたてた。
「自分たちは沖縄からの復員兵です。ワケあってこのような格好をしていますが、命からがらここ南九州までたどりつき、床を拝借したしだいです」
 潜水艦に救出されたとき以来、源は即興的対応の特技に自信をつけていたため、このときもいたって口調は滑らかだった。
 老僧はしばらく、半身を起こしただけの二人の寝ぼけ顔を観察していたが、源の瞳をじっと見つめると、柔らかく声のトーンを下げて詫びた。
「…いやぁ、突然怒鳴ってすまなかった。てっきり酔いつぶれて転がり込んだ不良漁師かと思ったもので…」
「仏の宿る神聖な場所に勝手に入り込んですみませんでした。何しろ昨日、枕崎で船を降ろされて以来、飲まず喰わずでここまで歩いて来たものですから、せめて…、せめて屋根の下で眠りたいと思い、つい…」
 となりの知花は源の熱弁に感心しながら沈黙を維持していたが、視線を落とした瞬間、一筋の冷や汗が背中を走る気配に怯えた。「飲まず喰わず」だったはずなのに、床にサツマイモのカスが散乱していたのだ。知花は頭を前に突き出すようにゆっくりと上半身を折り曲げ、自身の影で必死にそれを隠した。
 老僧は、知花の挙動を懺悔の礼と理解したようで、イモのカスに気づく気配はなく、むしろ同情するような目で二人に同行を促し、そそくさと歩き出した。源と知花は目線を交錯しかすかな笑みを浮かべるも、すぐにわざとらしく気しんどそうな表情に顔を歪めて老僧に続いた。
 一五分も歩くと、うっそうとした木立に囲まれた立派な寺院が見えて来た。裏口から境内へ案内され、墓地のまん中を進んだ。
「雲輪寺…か」
 境内に入ると、源は両脇の墓石の一つ一つを確認するように小刻みに振り返りながら歩いた。
 二人は本堂横のまかない小屋のような平家の建物に通された。そこでは、修行僧と思われる丸刈りの若者三人が清掃をしている最中だった。
「このお二人は、お勤めを終えて沖縄から帰還された方々じゃ。食事を…」
 源と知花は合唱し、案内された座卓の前に座った。知花は正座したが、源は申し訳なさそうに左脚を伸ばしたまま腰を降ろした。
「ビルマで左脚をやられたもので、失礼します」
 斜めに伸びた源の脚を横目で見ながら、修行僧は雑穀飯とほとんど具のない味噌汁、薄く切られた三片づつの漬け物を配膳した。二人は再び合唱し、箸を手に持った。知花はすぐに食べはじめたが、源はしばらく黙思したあと、見守っていた老僧の方を向いた。
「住職は、自分がでまかせを言っているとは考えないのですか」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋