ゆきの谷
源は、自身に対する船員たちの、あまりに丁重な応対にいささか疑問を持ち、知花に詰め寄った。
「それは秘密です」
知花は笑みを浮かべるだけで内容を明かそうとはしなかった。その後も二つの船を乗り継ぎ、糸満を出発してから五日目の六月一三日早朝、ついに鹿児島県の枕崎漁港に到着した。
「日本だ、ついに本土の地を踏むことができたな知花!」
「そうですね」
閑散とした漁港を歩きながら、二人は弾む心そのままに、無邪気な笑顔を交換し喜びの会話を楽しんだ。
「今さら怒らぬ、船長らにどんな頼み方をしたのか言ってみろ」
微笑みはたたえていたが、きっぱりとした口調で質問した源の大声に驚き、知花は観念した。
「奄美大島の輸送船の船長に交渉したとき、船長から妙な質問をされたんです。『あんたらも沖縄守備隊の参謀か?』と…。反応に困って黙っていると彼は勝手にしゃべり出しました。『御国を護る軍のお偉いさんの頼みなら、喜んで協力します。ついこの間も自分の従兄弟が、緊急の要件で本土に向かう第三二軍の若い参謀を助けたばかりなんです』って言うんですよ。だからつい、『今度は海軍の陸戦参謀だ。敵の目をごまかすために漁師に扮しているが…』と言ったんです」
「………」
源は後日知ることになるが、参謀が民間の船で本土をめざした話は事実だった。この「第三二軍参謀」とは、長参謀長の部下で航空参謀の神直道少佐である。
航空機が不足し、それこそが「苦戦の原因である」という防衛軍司令部の結論に伴う援軍要請を、無線連絡では大本営が受け入れなかったため、彼は直談判の目的で急きょ首里から東京へ派遣されたのだった。
藤田曹長を伴い、糸満の名城海岸を出発した神航空参謀は、糸満漁夫の手漕ぎ船で源らとほぼ同じルートを北上し、鹿児島を経由して東京へ向かったのだった。
命をかけた遠距離出張の結果は、すでに沖縄を見捨てていた大本営のにべもない拒否回答だった。十分予想できたとはいえ、命がけの大遠征を敢行した神航空参謀にとっては、あまりにも無惨な結末であったと源は同情した。
それはともかく、二人は日本へ復帰したのである。
階級章をちぎり捨てたあのとき、源は「軍と祖国を裏切り敵前逃亡をはかる卑怯者に成り下がる」決意で沖縄脱出の決心をしたが、なりふり構わずそれを率先してきたのは、自分ではなく知花だった。
源は、南九州の大地に接吻してはしゃぐ知花を見つめながら、感謝の意を込めて一礼した。本人には気づかれないように…。
枕崎の市街地は三月一八日以降、何度か空襲を受けていたためいたるところにその傷跡を残していたが、このときの音と空気は平和そのものだった。
「思えば、自分はいつも海軍に助けられて来たような気がする。米海軍も含めてだがな」
すでに告白され、比嘉のことも承知していた知花はうなづいた。
「ペリリューで捕虜として敵駆逐艦に収容され、日本の潜水艦に助けられた。沖縄でも、小禄の海軍陸戦隊へ合流しなければ、首里で死んでいたかも知れんし、壕の入口で脱出準備中だった現地召集海軍兵の集団に遭遇しなかったら、糸満へ逃れることもなかっただろう。そして与論島まで運んでくれたのも、その中の一人の仲里さんだ。それから日本のこと、日本人のことを色々と教えてくれたのも、海軍下士官だった。日系米国人の…」
黙って歩く二人の脳裏には、もはや南方の彼方に遠のいた沖縄の情景が、妙に色褪せた映像のように思い描かれていた。
今にしてみれば、潜水艦の中で感じた沖縄への運命的予感は、実は源自身が死ぬことではなく父の事件の鍵をにぎる男「越智と巡り会ったこと」だったような気がした。言うまでもなく、自身が「日系米国人の…」とその名を上げかけた比嘉が、源が感得した「運命的予感」の一部を、悲しいかな実は見事なまでに構成していたなどとは知る術もなかった。
「恩人なら、陸軍にも居るでしょう」
知花はおどけながら自身を指差しながらそう言ったが、源は気づかずに歩き続けた。
「あっ、確かに陸軍にも居たなぁ。オイ知花、ここはどこだ?」
「枕崎ですよ…」
自身が感謝されると思っていた知花は、源の意外な問いかけにやや失望し、大げさなぐらいのふて腐れた声で即答した。
「指宿ってところはここから近いか?」
源は山元のことを思い出したのだ。知花はおもむろに眩しい朝日を指差して言った。
「…東へ四○キロぐらいですかね。…ところで、指宿に何か?」
「ああ、ビルマで世話になった先輩が指宿の出なんだ。群馬に帰ったら鹿児島くんだりまではそうそう出かけられんし、この機会に立ち寄ってみようと思う」
知花は指し示す向きを素早く変えた。
「北東へ五○キロ行けば鹿児島ですよ。そこからは汽車に乗れるかも知れないのに…」
「指宿には鉄道は通ってないのか?」
早く小倉に帰りたいという心理が一旦は知花の口をこもらせたが、源の決意に満ちた態度に押されて白状した。
「山川まで通ってます、指宿のすぐ南です。ただ指宿線は田舎列車だし、軍事優先、空襲たけなわのこのご時世、走っとらんかも知れませんよ」
すぐにでも小倉に飛んで帰りたい知花の気持ちを十分に理解する源は、自身の都合を押し通すために彼への褒め言葉を探した。
「オマエは何でもよく知ってるなぁ。オレは九州は不案内だから、後生だ、つき合ってくれ」
知花は左手を額にあて、困り果てたようなしぐさでしばらく考え込んだ。
「それは命令ですか?」
予期せぬ一言だったが、源はすぐに反応した。
「…命令ならつき合うのか?」
「…お互い、兵隊はやめたはずですよ」
二人は立ち止まり、子どもっぽい駆け引きに熱中した。
「じゃあ…、何ならつき合う?」
背を丸めて上目使いに自身をのぞき込む源を見ると、知花は勝ち誇ったように笑顔で胸を張り、ゆっくりと腕を組んだ。
「どうしようかな、ん…。それじゃあ五回、『王様命令』をきいてくれたらいいですよ」
「何だ、それは?」
源は眉間に、警戒心を込めた深いシワを造成した。
「子どもの頃に流行った遊びなのですが、命令される側は召し使いになり、王様には絶対服従しなければならない遊びです」
途端に源はむっとし、鬼兵長の顔に戻った。知花は調子に乗り過ぎたと思い、表情を崩した。
「何とか三回にならんか…?」
知花は源の意外な一言に意表をつかれ、思わず吹き出した。
「いいでしょう。お世話になった元上官でもありますし、特別に三回に負けておきます」
源もあとを追うように大いに笑い、二人はゆっくりと東に向かって歩行を再開した。すると、まだ一○分も歩かないうちに、知花が小声で言った。
「吉澤さん、朝飯…」
源は(そら来た!)と人差し指を立て、これが一回目の「王様命令」であることを確認すると付近の民家に突進した。しばらくすると源は、サツマイモを抱えて帰って来た。
「王様ーっ、どうぞ」
自身で一つをかじりながら、道端の草原に寝そべって待っていた知花に残りの二つを差し出した。
「コレ、どうしたんですか?」
驚いた知花が恐る恐る尋ねると、源は魚釣りの動作を真似ながら口の中のイモを急いで呑み込んだ。