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ゆきの谷

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「命の恩人であるお二人に、早速恩返しができるなんて本当に光栄です。米軍も今日、明日はまだ来んでしょう。うちでゆっくりして行ってください」
 そう言うと仲里は、愛嬌たっぷりの小さな二体のシーサーが護る赤瓦の平屋に二人を導き入れた。
「ご家族は?」
 額の汗を拭いながら、知花が仲里に問いかけた。
「ヤンバル(北部)に疎開しています。妻と、九歳、七歳、六歳、四歳、二歳の五人の子どもがね…。実はどうするか迷っていたんです。家族に合流するためヤンバルに行くには、陸路はダメだから船しかない。でも海はアメリカで一杯だろうし一人で船出するのは心細いから、それでどうしようかと…」
「確かに、海上も陸と同様、敵だらけでしょうからね」
 上官を自ら放棄した自分にとって、歳の頃四○半ばの仲里は、目上の年輩者にあたることに今さらながら気づき、源は急に敬語を使った。仲里はその源の変わり身に気づき、一瞬、知花の顔をチラッと見たが、立ち上がり歩きながら続けた。
「でも知花さんからの相談をうかがい、決心しました。お二人と一緒なら恐いものなしですから」
 仲里は部屋と台所を何度か往復し、干した魚や漬け物を運び、二人のために雑穀のご飯まで用意してくれた。それを見た知花は、欣喜して目を輝かせた。
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」
 そして二人は勧められるままに、片っ端からかぶりついた。ご馳走を夢中でほうばっっている二人をながめながら、仲里は自身の計画を語りはじめた。
「発動機のついた漁船は海軍に徴用されたか敵に破壊されてしまい、もうこの糸満には一隻しか残っていません。それを使って明日未明に出発しようと思います。何しろ物不足なので準備はかなり困難を伴いますが、不眠不休でがんばれば明日はなんとかなるでしょう。早い方がいいですからね、自分も早く家族に会いたいですし…。ここの漁村の一角に住んでいる残りの者はわずかですが、もしその中にヤンバル行きを希望する者がおれば連れて行きます。あと五、六人は乗れますから」
 源と知花は聴覚だけを仲里に預け、その他の感覚は食事に集中させながら聞いていた。
「西の東支那海は敵艦船で一杯のはずですから、一旦南下し喜屋武岬を経て東進し、太平洋側を北上、与論島を目指します。ただし、燃料が少なく与論までの航海には足りないので、時間はかかりますが太平洋に出たら発動機を止め、黒潮に乗って漂流することになります。ヤンバルを目指す自分らは、お二人を与論で降ろしたあと反転し、辺戸岬へ向かいます」
 仲里の話が一段落すると、大きな塊を飲み込み、知花が口を開いた。
「与論まで連れてってもらえば、あとは何とかなるでしょう。九州までの乗り継ぎの船は自分が探しますよ」
 源はなおも咀嚼を続けながら、どこまでも楽観的な知花に感心しつつ、仲里に軽く会釈した。
 そのようすを見つめていた仲里は、ゆっくりと大きく首を振り、しんみりとした口調で源に言った。
「あのとき、脱出を躊躇していた我々を、あなたが強引に連れ出してくれたから、今自分は生きていられるのです。小禄の壕に残っていれば、あなたがおっしゃったとおり、おそらくダメだったでしょう。自分は命に代えてもあなた方を与論島までお届けしますよ」
 二人は箸を置き、両手を仲里の方へ伸ばした。そして三人は固く互いの手をにぎり合い、双眼を潤ませた。
 翌日の糸満は、午後から豪雨に襲われた。
 決行予定時間が迫る中、準備を急ぐ仲里は欣喜した。海は多少荒れるが、周辺の敵に察知される可能性が減少し、安全な離岸が保証されたからである。
 予定を二時間ほど繰り上げ、六月八日二一時、雨足が弱まらないうちに出発することとなった。ヤンバル行きの誘いに便乗することになった者は、結局夫婦とおぼしき二名のみだった。
 源と知花、それに同乗者の二人は漁師姿に変身し、小さな漁船にさっそうと乗り込んだ。目的地までの食糧は漁に頼るほかなく、必要な装備はすべて仲里によってそろえられ積み込まれた。むろん、銃器などはすでに破棄してしまっていたため丸腰である。
 漁船は、敵艦載機の爆音とは程遠い、ポンポンポンという貧弱な発動機音をたてながらゆっくりと沖へ向かって滑り出した。
「四日間に二度も深夜の脱出行を、それも命がけで行った者など、世界広しと言えども、そうは居ないだろうな」
 降りしきる雨の中、上機嫌な源が大声を発すると、「楽観王子」がすぐに応答した。
「しかも陸と海の双方で、ですからね。自分らは陸海軍を日替わりで演じているわけですね」
 二人は笑いながら同時に振り返り、真っ黒い影をぼんやり感じるだけの本島南部の山野に目を細め、それをあとにした。源は、自身の名が刻まれた墓をあとにするような神妙な気持ちになり、ここで出会った人たちの顔を回想した。
「さらば、沖縄!」
 去来したその数々の顔は、どれもみな緊張や苦痛、不安に彩られていた。井上大尉も大田少将も、精一杯の笑顔を造成した田所も、そして砲弾で背中を負傷した、…越智少尉も。
 外海に達し、嵐で荒れる東シナ海を南に進路変更してしばらくすると、仲里が操船場から顔を出した。
「こんなボロ船でも一五ノットは出ますから、全速力で走り続けられれば与論島など六、七時間で着いてしまうんですけど…。やはり燃料が集まらなかったので、その倍以上はかかるでしょうね」
 やや弱くなったが依然として降り注ぐ南国の雨を顔に受けながら、源はうなづいた。
「ほぼ半日か…」
 仲里の計画では、雨と夜闇に紛れて最短距離をできるだけ飛ばし、与論から辺戸までに必要な分の燃料を残して発動機を止める。彼の計算によると、その位置は北緯二六度三○分、宜野座と東村の中間点あたりで、想定時間は翌午前一時頃ということだった。
「それまで雨が降り続いてくれればいいのですが…」
 大粒の雨に顔を打たれながら、三人は祈るように漆黒の空を仰いだ。
「あとは黒潮しだいですね。与論島付近までどれぐらいで運んでくれるのか…」
「発動機を止めても、海流だけで北上できるんですか?」
 源はかねてからの疑問を口にしてみた。
「沖縄の東には、島に沿って北上する黒潮の強い流れがあり、これは条件が整えば五ノットぐらいの早さになると言われています。つまり時速九キロ強ですね、人が歩く速さの倍です。この時期でも最低五キロの速度は維持してくれるでしょう」
 源と知花は感心したように不得要領のうなづきを残して、そのまま用意されたシートを被り、眠ることにした。狭い甲板のとなりでは、すでに同乗者の男女が怯えながら横になっていた。
 それは、敵の艦船に発見されることを恐れていたのか、それとも残忍で身勝手な元日本陸軍軍人の同乗者二人を恐れていたのか、源にはわからなかった。



【逃避行】

●指宿を目指して

 期待した黒潮の流速は、残念ながら仲里の計算の最低ラインを持続し、与論島に到着したのは午後三時頃だった。それでも一行は無事の航海を喜び、再会を誓い合って別れた。
 知花は予定どおりに新たな船を探し出し、難無くそれに乗船することができた。それは奄美大島に戻る民間の物資輸送船だった。
「オマエ、いったいどんな交渉をしたんだ?」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋