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ゆきの谷

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 和みかけた空気が、再び沈痛な重苦しさに変化した。それでも一人が源に敬礼すると、全員がそれにならい今生の別れを交わした。源が答礼姿勢のまま上半身をゆっくり回転させ、全員を引見し終えると、それを合図にみな小グループに分かれて散って行った。
「自分にとっても、四四旅団は家ですが…」
 泣き出しそうな笑顔の知花が、一人だけ居残り源を見つめて力なく訴えた。
「四四旅団は全滅に近いほど減ってしまったらしい。だからこれからは少数精鋭で行くだろう。よってヘボな未成年狙撃兵は除外することに決する!」
 しめやかではあるが、再び冗談めいた口調で知花に視線を向けることなくそう宣言した源の言葉が切れると、知花はゆっくりとうつむき両肩を震わせた。
「…吉澤さんはいずれ本土に帰られるのでしょ? だったら自分もご一緒させてください、自分の家はここ沖縄ではなく、九州の小倉ですから」
 知花の一言は、源の全身に電気ショックのような衝撃を与えた。
 よもや生きて本土に帰還するなど忘却の彼方に置き去り、首里と小禄の激戦をかろうじてくぐり抜け、今また原隊に復帰しようと考えていた源にとって「生還→家族との再会→父の謎の解明」は、もはや慮外の不可能ごとと決めつけていた。しかし知花は、それが可能性として、なんとか存在していることに今更ながら気づかせてくれたのである。言い換えれば、もはや精魂尽き果て抜け殻となりつつあった源に、闘い以外の生きるモチベーションを与えてくれたのだ。
 源は自身の右腕、左腕、右脚、左脚をいたわるように見やり、最後にゆっくりと充血した知花の双眼を見た。
「…知花、本土へ帰ろう。九州へ渡ろう」
 源は泥だらけの頬を涙で濡らし、すっかり痩せ細ってしまった知花を抱きしめた。

●沖縄脱出

「源、起きなさい。こら、げーん…」
 野原の窪地で一夜を過ごした二人は、航空機の轟音に気づき飛び起きた。那覇か豊城への空襲の帰途と見え、二◯機ほどの敵艦載機は攻撃態勢を取ることなく青白い機体をきらめかせて南西方向に消えて行った。
 源は機嫌がよかった。
「あのグラマンめが来なければ、もう少し姉の声を聞いていられたのに…」
 ずいぶんと久しぶりに、姉の梓織に起こされる夢を見たのだ。(この夢に起こされるということは、まだ希望が残されている証だ)と、源は考えた。
 まとまった睡眠が取れたのも、首里から小禄への移動時以来のことだった。爽快な気分の中、源は自身の半生と将来のことを考えた。そして、陸軍でのキャリアをすべて捨てる決意を固めた。
「知花、オレは兵隊をやめるぞ。もううんざりだ!」
 そう言うと源は両襟の階級章を剥ぎ取り、地面に叩きつけた。そしてボロボロになった軍靴で、土にめり込むほど力強く踏みにじった。
「生還をはたすためには、もはや軍人などやっておれん」
 今この瞬間から「現役陸軍兵長」を放棄し、軍と祖国を裏切り、敵前逃亡をはかる「卑怯者」に成り下がる決心を固めたのである。
 知花はそのようすを笑顔で見守ると、自身も源を真似て階級章をむしり取って投げ捨てた。
「オレの親父には尊敬する上官がいた。たいそう立派な方だったそうで、ことあるごとに親父はその上官、菱刈さんの教えを話をしてくれた。その中にこんな格言があった。『男がコレと決めてことに当たるときは、全神経を集中して完遂すべし、ほかのことに気を取られながら取り組むぐらいなら、よい結果は見込めないからやらん方がいい』と。
 つまり『二兎を追うな』ということだ。親父は菱刈さんから教えられた教訓の中でも、これが随分気に入っていたようで、口癖のようによく言っていた。元狙撃兵の親父らしいだろ」
「ただの諺じゃないですか、『二兎を追う者は一兎を得ず』…」
「まぁ確かにそうなんだが、聞いたタイミングがよっぽどよかったのか、親父にはいたく響いたらしい。
特に狩猟を想起させる例えが、マタギの影響を引きずる元狙撃手としては気に入ったのだろう」
「ようするに、軍人を続けながらの生還は不可能ということですね。それはちょっと格言の主旨とは違うような気もしますが…。このご時勢ですからわかる気もします」
「いずれにしても、これからは脱出と生還に集中すべきだ。この目的を完遂するためだったら、オレはどんなことでもやってのけるぞ、知花!」
 二人は早速協議し、まず食糧と民間人になりすますための私服を探し、それから島を脱出するための船を調達することにした。
「吉澤さん、ちゃんと宛はありますよ。自分が指揮した小禄脱出の第二班に仲里という、元は糸満の漁師だった年輩の兵隊が居たんです。彼のところへ行ってみましょう。うまくすれば、メシと服と船の三つが一挙に手に入るかも知れませんよ」
「はたして、そううまくいくかなぁ…?」
 疑問を呈してはみたものの、ほかにこれといって妙案も浮かばないので、源も知花の楽観に便乗することにした。そして二人は、晴れ晴れとした気分で港を目指して歩き出した。
 絶望的な戦火を何度もくぐり抜けて来た源にとって、今を生きていること自体が奇蹟であり、小禄海軍壕の前でバラバラになって四散していた肢体、焼けただれて敵味方の判別も不能だったペリリュー島の黒焦げ死体、ビルマの山道を埋め尽くした餓死や病死の骸などと自分とが、ほとんど紙一重の差でしかなかったことをよく理解していた。だから、もはや恐れるものなど何もなく、また何かに怯える必要もないため、目的を遂行することのみに集中すべきであると決意したのだ。源が知花の楽観に乗じたゆえんである。
 所々焼け焦げたサトウキビ畑を抜けると突然視界が開け、エメラルドグリーンのまぶしい海が一面に広がった。前回これを見たのは三ヶ月ほど前、日本へ帰還した喜びと、沖縄決戦に挑む意気込みを胸に抱いて、比嘉と上陸したときだった。
 (比嘉はどうしたのだろう、北部にある祖父の故郷に無事着いただろうか…)。よもや無惨な処刑によって比嘉が殺されたことなど夢想もせず、源は三年にも思えるほどの三ヶ月前を懐かしんだ。
 知花は、漁港に沿った家々をこまめに訪ねては、仲里家の捜索に没頭していた。
 空襲か砲撃によるものかは判別できなかったが、周囲は随所に破壊され、あるいは焼失した家屋の残骸が散乱していた。米軍南下の情報が入ったのか留守宅が多く、外を歩く人影もまばらだった。避難民や撤退中の防衛軍将兵でごった返す内陸の大通り沿いとは、随分と趣を異にしていた。
「はて?」
 姿を消したままいっこうに戻って来ない知花の消息を案じ、周囲を見まわしはじめたそのとき、源の耳に少年兵の元気な声が響いた。
「吉澤さーん。ありました、ここです」
 知花が二○メートルほど先の路地から顔を出し、忙しく手を振った。一歩遅れて、見覚えのある浅黒い中年男が裸の上半身を現出させた。すでに知花から事情は聞いたらしく、小走りで近づき敬礼した。
「仲里です。昨日は大変お世話になりました…」
 姿勢を正す仲里に、笑顔の源は答礼せずに握手を求めた。
「もう軍人はやめました」
 仲里は二人の襟元を確認し、破顔した。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋