ゆきの谷
硝煙と土煙にかすむ周囲は、すでに大きく地形を歪めていた。その変わり果てたようすに、源は驚愕した。右も左もわずかに白煙を上げる砲孔で埋め尽くされ、一四人の部下をはじめ、すべてのタコ壷陣地が跡形もなく消滅していたのである。
我に返った源は、慌てて知花の奥襟をつかみ、引きずりながらタコ壷を這い出た。そして、耕された地面にしがみつくようにして必死に後退した。地面にはちぎれた足首や片腕、血まみれの鉄かぶと、折れ曲がった小銃などが多数散乱していた。
やっとの思いで司令部壕に到着し転がり込むと、そこには数一◯名の兵たちが集結していた。みな丸腰だった。源は知花を引きずりながらその中へ割って入り、息を切らせて倒れ込んだ。
砲弾の荒れ狂う外部から飛び込んで来た突然の訪問者に、みな一様に驚き二人を取り囲んだ。源が仰向けになって閉じていた目を開けると、痩せこけた真っ黒い顔の数々が、覆いかぶさるように見下ろしていた。
「この少年は生きとるんか?」
源は発言者の二等兵をにらみつけ、吐き捨てるように言った。
「至近弾の衝撃波を受けて失神しているだけだ! 弾の飛んで来んところでボーッとしてるぐらいなら、介抱しろ」
傍観者たちは慌ててザワザワと動きだし、何人かがゆっくりと知花の身体を仰向けに整え、一人が湿らせた手ぬぐいで泥だらけの顔を拭いた。
●決死の南部脱出行
「大丈夫か、しっかりしろ」
か細い沖縄訛の励ましは、入口付近の壕内に響き渡った。その温もりのある優しげな声を聞き、源は改めて兵たちの顔を見まわしてみた。少年と老人ばかりだった。
「…みな、現地召集兵か?」
どの顔も憔悴しきっていた。
「はい、南部への脱出の命令が出たのでありますが、どうしていいかわからず、とりあえず外のようすをうかがっていたところであります」
「…将校は居ないのか?」
「司令官をはじめ海軍の将校さんたちは、どうやら壕の奥で自決されるようです」
源は憤りを感じた。最後まで戦わずに死ぬ軍人へのそれと、現地人を強引に召集し使うだけ使い、用が済んだら銃砲弾が降りしきる外へ放り出す無責任さへの怒りだった。しかし考えようによっては、(放り出すこともせずに自決を強要する陸軍よりは、少しはましなのかも知れない)とも思った。
「よし! 自分は陸軍兵長だ。将校でもないし、海軍の自決につき合ういわれもないから、今からオレが南部脱出作戦の指揮をとる。いいな!」
源の力強い声明を聞き、不安げに怯えていた幾つもの汚れた顔に生気が戻った。
「早速オマエとオマエ、壕内に残っている武器弾薬をありったけ集めてこい。それからオマエは担架を作るための長い棒を探せ。貴様らは、丈夫そうな靴をできるだけたくさん集めてこい。死んだ者から拝借するんだ。ああ、戦死者から靴を脱がす前に、ちゃんと拝むことを忘れるなよ…」
源は矢継ぎ早に指示を出し、残った者には手持ちの食料と脚まわりの点検をさせた。そのとき、慌ただしい周囲の雑踏に気づき知花が覚醒した。
源が事情を話すと知花はすぐに了解し、もうろうとする目つきのまま銃の点検をはじめた。
作業に没頭する老兵と少年兵の集団を見まわした源は、込み上げて来る悲哀の念を禁じ得なかった。尊敬する大田司令官の命令どおり、現地人を守るための脱出を試みるが、自分も含め、はたしてこの中の何人が生き残れるのか、どう考えても悲観的な数値しか算出できなかったからである。
「全員集まったな。まず履いている靴がダメなヤツは、ここに揃ったものと履き替えろ。まだ使えそうなものは、捨てずに予備として持っておけ。それから手持ちの食料はかなり乏しいが、それは道中で現地調達する。今、全員で四五人居るので、三つの班にわける。第一班の班長はオレ、第二班はこの知花二等兵、第三班は…、一等兵のオマエ。名前は?」
「はっ、手登根です」
「よし、第三班は手登根一等兵が率いる」
源は毅然と立ち上がり、眉間に力を込めて再び全員を見まわした。すると兵たちはその迫力に促されるようにワラワラと動きだし、各々がうごめく頭の数を数えながら、自然に一五人づつの集団に分かれた。
「夜まで待っていては手遅れになるから、すぐにそこの出口から脱出し敵前を突破する。危険はもとより承知の上だ。どうせここに残っていても助からないからな。オレの第一班は全員が武装し、先に出て二班、三班の脱出を援護する。二班、三班は合図したら素早く飛び出し、できる限り姿勢を低くして左手、つまり南に向かって走れ」
源の指導に聞き入っていた一人の老兵がおもむろに手を挙げ、恐る恐るつぶやくように言った。
「ここに残ると本当に死ぬんですか? 投降しては…」
源はためらうことなく、しかし懇切ていねいな口調で説明した。
「それは危険だ。米軍は見えない敵には容赦しない。このような洞窟は徹底的にやられる。速射砲、手榴弾、火焔放射、ガス弾、最後は壕ごと吹き飛ばし生き埋めにするかも知れん。さりとて、白旗を振って出て行くのも今の状況では自殺行為だ。オレの経験だと、このメチャクチャな砲撃はあと半日は続くだろう。まずは出るに出れない。砲撃が終了したあとも、決して安心はできない。敵は壕のようすをうかがいながら、瞬時に急接近し入口を封鎖する。馬乗り攻撃だ。
タイミングが早すぎると敵との距離が遠すぎて、砲兵は動く影の確認などせずに速射砲を打ち込むだろう。タイミングが遅すぎると、入口に張り付いた歩兵に、気配を漂わせただけで手榴弾か火焔を打ち込まれる…。
むろん脱出行も危険だが、一つこれだけは間違いない。脱出により負傷や落命する者も出るだろうが全滅の可能性はそれほど高くないということ。ここに残れば、間違いなく全滅するということだ」
源はきっぱりと言いきると、兵が集めた武器の中から使い古された三八式歩兵銃を取り上げ点検をはじめた。
しばらく集団は動こうとしなかったが、第一班に配属された一人が源と同じように小銃に手を伸ばすと、それを合図にみな口元を引き締めて立ち上がった。
小銃を整備しながら源は、戦争という非常事態が繰り広げる様々な矛盾や悲劇を思い虚脱感を覚えていた。
元々日本軍は、敵から沖縄を守るためにここへ来たはずである。しかるに軍主脳は、砲声すらわずかにしか届かない壕の奥部屋に集結し、入口付近を現地召集兵、つまり本来守るべき沖縄人にまかせて平然としている。
先ほど壕に飛び込んだ自分たちがもし米兵だったら、ここに居る日本軍の軍服を着せられた四三人の沖縄人は間違いなく死んでいただろう。
(日本人は本当に身勝手だ。良くも悪くも周囲に与える影響に、あまりに無頓着すぎる)。
戦前に大本営がぶち挙げた「八紘一宇」、「大東亜共栄圏の建設」、「白人支配からのアジアの独立」というスローガンに踊らされ、翻弄され続けたアジア、オセアニアの有色人種の悲痛な叫びが、源の耳には痛くなるほど聞こえていた。