ゆきの谷
黎明のかすかな空の下、二人と四人の影は細長さを保ちながらまっすぐ西に伸びていた。源は自身の幼少期から入隊、現在に至るまでの詳細と父の死、姉への思い、越智への疑念を知花に語った。黙って聞いていた知花だったが、つかの間の沈黙を破るように、突然ぼそっと言った。
「越智少尉は、吉澤さんの父上を撃っていないと思います」
源は突飛な一言に驚き、反駁した。
「何でだ、なぜそう言い切れる?」
宙中を見やり、ぼんやりと思案していた知花の口が動いた。
「だって計算してみると、事件が起きた当時の越智少尉はおそらく二◯歳そこそこですよ。もし少尉の単独行動ではなく憲兵隊が組織として動いた作戦なら、おそらく経験も浅いであろうそんな若造に、『ターゲットの狙撃』という大事が任されるとは思えません。経験豊かな、もっと上の人が実行したと考えるのが自然じゃないですか」
「………」
源は沈黙した。沈黙せざるを得なかった。それは狙撃兵である自分が一番よく理解していることだったからだ。
自分の先輩もそうしたが、自身も後輩と組んだときはそうだった。大事な局面では、どうしても経験の浅い部下には任せられない。二◯歳そこそこの少年兵ならなおさらである。
「しかし、七・九二ミリ小銃を持つ元憲兵なんて、そうそう居るとは思えんが、越智少尉でなければ、いったい誰が…」
●大田実海軍少将
源の心は、再び暗中模索の定位置に逆戻りしてしまった。(あのとき、もう少し時間があれば、越智からもっと情報を引き出せたのに。少なくとも「マッパ」役の名を…)。
マタギ用語で「セコ」は獲物の追い立て係、「マッパ」は射撃係を指す。真偽のほどは定かではないが、越智は自身がセコだったことを告白した。それから、冷静に考えてみると越智が憲兵になった当初から「モ式」小銃を装備していたとは、必ずしも断定できないことに気づいた。自身も三八式から九九式に変わった経緯が示すとおり、装備する小銃が変わることはそう珍しいことではないからだ。とぼとぼと頭を垂れて歩く源は、無念の舌打ちをくり返した。
「そういえば、小隊長は回復したんですかね。あのあと無事に、野戦病院まで連れて行ってもらえたのかな」
越智を案ずる知花の言葉にも源は無表情のまま反応せず、しばらく沈思していた。
「病院…?」
思い出したように、源は知花が発した言葉の一つをすくい上げた。
「えっ、今何か言いました?」
知花が思わず聞き返したが、源はそれと気づかず、脳中で「誘拐」と「病院」が劇的に結びつく衝撃に動揺した。輸送船内で関川老兵は、「貴族や金持ちがお産のときに利用する病院で父を目撃した」と話していた。(その産婦人科と思われる病院で、父はまだ赤ん坊だった姉を誘拐した…。確かにこれなら、一応話の筋はつながる…)。
源は全身の血液が逆流する感覚に襲われ、思わず歩を止めた。
「どうしました?」
知花は呆然と立ちすくむ源に声をかけ、ほかの四人も二人を囲むように止まった。周囲に気を配る余裕もないまま、源は額に左手を当てて考え込んだ。(もしかすると謎を解くための材料は、すでに目の前にすべて揃っているのかも知れない)。そしてこれまでに得た数々の情報と助言を整理し、父の死とその背景事情を推理した。
(父は何らかの理由で、石狩武官の親族と思われる赤ん坊、つまり姉「梓織」を横浜の病院から拉致、誘拐する。理由は何にせよ、おそらく一時的に魔が差したのだろう。後悔し困り果てた父は、尊敬するよき上司だった加藤弥太郎氏に相談する。東京の世田谷から水上への引っ越しがその直後だったらしいことから、おそらく加藤の助言で転居したのだろう。その後石狩は、息のかかった憲兵を使い躍起になって父と梓織を探す。そして父は射殺され、梓織はどこかに逃げたか、石狩に連れ戻された…)。
少年兵の一人が、黙思を続ける源のようすにはお構いなく、無遠慮な口調で言った。
「兵長、先を急ぎましょう。夜が開けたらグラマンがやって来て、上からやられちゃいますよ」
「…ああ、そうだな、すまん。行こうか」
早足で歩き出してからも、源の心はどんよりとした疑念と疑惑の海を漂っていた。
(それにしてもなぜ、あの父が誘拐なんて…)。
「あっ、もしかすると…」
源は、実は兄と母のいずれか、または両方が真実を知っているのではないかという疑惑に突き当たった。
なぜなら、(姉が家から消えたのは《父の死により家計が苦しくなったから、口減らしのために里子に出した》ことになっていたが、憲兵に、つまり石狩に連れ戻されたと考える方が自然である。
父の死後、石狩の使者は母に姉の引き渡しを迫った。優秀で執拗な陸軍憲兵隊が本気になってことにあたれば、一民間人ごときがそれに抗し得るはずがない。母は泣く泣く姉を手放した。そして母と兄は、誰よりも姉を慕っていた自分に気遣い、里子に出したことにした。これなら一応、つじつまが合う)。
自身の推理が生み出す新しい仮説に納得しながら、源は再び判然としない部分を整理した。
(加藤との談合の中身、父を射殺した実行犯、姉の消息と生死、そして最大の疑問である、…誘拐の背景事情。なんとか生還して母に尋ねなければ…)。
軍靴の響き、というより引きずる弱々しい足音だけを残し、無言まま行軍する六人の頭上は、すでに薄明るくなっていた。那覇を見下ろす小高い丘の中腹に、源たちはようやく到着した。小禄の海軍沖縄方面根拠地隊司令部も、薄暗い洞窟の中に位置していた。
到着の申告に訪れた源の前に佇立したのは、まぶしい桜の階級章を着けた海軍少将、大田実司令官だった。
「ご苦労。諸君らには、この司令部の護衛にあたってもらう」
源は硬直する五人とともに、直立したまま聞いていた。
「ここには那覇を追われ、避難して来た民間人も多数同居している。彼らは老若男女を問わず、みな軍に献身的に協力してくれている同胞だ。司令部だけでなく彼らの生命も、キミらが護る対象であることを忘れないでくれ。
残念ながら当軍は精鋭部隊を逐次首里に引き抜かれ、もはやまともに戦える者はほとんど残っていない。だから少数といえども、歴戦の勇士であるキミら陸軍部隊を頼りにせざるを得ない状況だ。くれぐれもよろしく頼んだぞ」
大田司令官の言葉に誇張はなかった。海軍沖縄方面根拠地隊には一万人が配備されていたが、正規の海軍軍人は三、○○○人程度で、残りのほとんどが現地召集兵だった。正規軍人の中でも、大部分は元艦船乗組員などで陸戦訓練の経験を有する者は一○分の一程度だった。
また、首里の第三二軍からの度重なる援軍要請を受け、約二、○○○人の有力部隊が引き抜かれたため、戦力として見込める専門の陸戦兵は皆無に等しかったのである。
「はっ、全力を尽くします。追って、第一五連隊の第二大隊主力も駆けつけるはずです…」
大田少将は源の言葉には反応せず、目礼を交わすと壕の奥に消えた。源は自分で言っておきながら、(大隊主力など来るはずない)と思っていた。
未だかつて大本営が玉砕間近の孤立した守備隊に援軍を送った例などないように、日本軍、特に陸軍には、この種の空手形を頻発する悪習が慣例化していたのだ。