ゆきの谷
日章旗がたなびいたと思ったら、数人の兵もろとも瞬時に吹き飛ばされ、やがて星条旗が掲げられる。するとすぐさま反対の斜面から日本軍が突撃してそれを排除し、再び日章旗が…。小高い丘は一日に何度も主が入れ代わり、その度に死体の山と血の川を肥大化させた。
五月一八日、防衛軍はついに力尽き、シュガー・ローフは米軍の手に落ちた。しかしその代償は大きく、米第六海兵師団はこの戦闘だけで二、六六二人の死傷者と一、二八九人の発狂者を記録した。
源と五人の少年兵たちは、丘の中腹から敵将校や下士官など部隊統率者を狙撃する支援任務にあたっていたが、事前の予想をはるかに越える激しい白兵戦が展開されたため、たいした貢献はできずに一八日の早朝には撤収していた。
「いよいよ首里は、終わりだな」
源は、血まみれの星条旗がはためくシュガー・ローフをあとにし、首里の本隊に戻った。しかしそこでも、予想どおり絶望的な苦しい戦いの日々が待っていた。敵はすでに司令部壕の入口付近にまで迫っており、食糧どころが弾薬の補給もままならぬ状況が続き、いよいよ玉砕の覚悟を固めはじめたとき、源は突然井上大尉に呼び戻された。
「西の米第六海兵師団主力が安里川を渡り南下の気配を示している、那覇を素通りして南部へ先まわりするつもりらしい。すまんがキミらは今から小禄へ向かってくれ。海軍陸戦隊の大田少将の指揮下に入ってもらう」
「えっ! 自分と五人の部下だけでですか?」
「大隊ごと移れという命令だが、もはや前線に散らばっている大隊主力の撤収を待っている時間はない。把握できた兵は例え少人数ずつでもすぐに出発させているんだ。キミらもすぐに発ってくれ」
「わ、わかりました…」
源は驚いた。(たかが六人の部隊移動で、戦局にどれほどの影響を与えられるというのか、それほど我軍は逼迫しているのか)…。むろん分が悪いことは周知していたが、防衛軍全体の状況など知るよしもなかった源は、この戦いがもはや末期的段階に達しつつあることをこのときはじめて理解した。そして、軍崩壊の予感とともに越智を思い出した。「兵長」が「少尉」に銃口を向けて脅迫した光景と合わせて…。
それは、ビルマで田所が加藤少尉を撃った現場を目撃したときに感じた憂いと同じだった。まさに、あのときの「田所」を自分が演じたことに苦笑しながら。
「こんな軍隊が勝てるわけないな、知花」
司令部壕をあとにした源が知花の肩をポンと叩いたが、知花には意味がわかるはずもなく、ただ沈黙を維持するしかなかった。
六人は支給されたカビ臭い干しイモをほうばりながら、西に向けて歩き出した。源は黙々と歩を進めながら、あのとき越智の口から飛び出した「誘拐犯」という衝撃的な言葉を思い出していた。
(父が誘拐犯? 越智は確かにその名を思い出し「吉澤惣平」と言ったが、どうしても考えられん。しかし、…もし本当に父だとしたら、いったい誰を何の目的で誘拐したというのか…)。
おそらく越智の勘違いかでまかせだろうと信じつつ、実はまったく思い当たる節がなかったわけでもなく、昔から抱いていた不思議な感覚を想起した。
幼心に抱いたその感覚とは、兄や自分とは何となく雰囲気の違う姉、梓織への想いだった。目鼻立ち、耳の形が兄弟で姉だけがまったく異なっていたのだ。源はその異質な美しさに、あこがれにも似た愛しい感情を抱いた。(越智の言葉どおりもし父が誘拐犯で、しかもその誘拐した相手が赤ん坊の頃の姉だったとしたら…)。姉弟の間にあってはならぬ感情の秘められた根拠が明白になるわけで、源にとってはとても自然で、いたって心地いい話だった。
源は祖父の影響で、幼い頃より方言文化だけでなく民族学にも傾倒していた。おかげで、方言や訛に対するアンテナが鋭くなり、また、身体的特徴からその人物のルーツを詮索する変わった趣味を持ち合わせてもいた。
日本人を分類する定義の一つに、南方海洋系(=縄文人)と大陸系(=弥生人)というセグメントがある。これらを外見から分類する一つの手がかりが、耳と鼻の形であることは広く知られている。
耳タブが大きく、いわゆる「福耳」の持ち主は、ほとんどが縄文系の血筋である。このタイプの人は総じて体毛が濃く、印象的な二重まぶたを持ち、横に広いダンゴ鼻が多い。まゆ毛の下が窪んでいて、つまりモンゴロイドの象徴「蒙古ヒダ」がないか極端に薄いのも大きな特徴である。
これに対し、耳タブがほとんどないか、あってもわずかな人は大陸系と分類される。縄文人とは逆に体毛、特にまゆ毛は薄く、一重まぶたで切れ長の細い目が特徴的で、鼻は筋の通った小さめの形状、「蒙古ヒダ」が厚いため上まぶたは腫れぼったい印象が強い。六○年もの長き旅の途中で、中央アジアのモンゴル諸民族と混血を重ね、ようやく極東にたどり着いたユダヤ支族の末裔という説も払拭できない、これが弥生人である。
むろん、時代が下るにつれて混血が進み、現在ではこれらの外見的特徴はかなり曖昧になっている。
元々、日本列島はほとんど縄文人で占められていたが、朝鮮半島から北九州に渡来したとされる、より先進的な弥生人により支配されるようになる。
卓越した農耕技術を持っていた定住型の弥生人は、おもに狩猟を糧としていた縄文人を駆逐し、あるいは混血をくり返しながら全国に広がっていった。気がつくと生っ粋の縄文人は、北海道と沖縄、つまり南北の両端に追いやられていた。
言うまでもなく、北の縄文人が「アイヌ民族」であり、南端の縄文人が「ウチナンチュー(沖縄人)」である。かけ離れた南北端両民族の容姿や文化、民俗的傾向が酷似しているのは、むしろ当然であるといえよう。
それはともかく、自身と姉との顔立ちの違いに疑問を抱いたことがきっかけで、このような知識と感性を身につけていた源は、奇妙な安堵感も交錯させた。それは、もし姉が父と母の子でなかったら、彼女に抱いた異質な感覚と特別な感情が、決して不自然なことではなかったことになる…という都合の良い安堵感だった。
重たい周囲の足音に気づいた源は、二、三度まばたきをし瞬時に思考を戻した。越智の自白が事実で父が姉を拉致・誘拐してきたのだとしたら、なぜ? いつ? どこから? …という疑問は、当然のように脳中で大きく膨らんでいった。(いや、そもそも父がそんなことをするはずがない)という願望にも似た思いとは裏腹に…。
「吉澤さん…、いつか聞こうと思っていたのですが、首里に到着した夜の、負傷した越智少尉との尋常じゃないやりとりは何だったんですか?」
源の後ろを歩いていた知花が歩み寄り、ほかの四人に聞こえない小声で遠慮がちに尋ねた。
「ああ、何でもないよ。忘れてくれ」
「そうはいきませんよ、あなたはあなたの上官、しかも将校に銃を向けたのですから」
源は、事情を知らぬ知花の純粋で規律を重んずる素直な問いに心を洗われたような気がした。同時に、あのような醜態を平気でやってのける自身の汚らわしさに、思わず顔をしかめた。
「オマエにはすべて話した方がよさそうだな」