ゆきの谷
米国製砲弾が巻き上げる土や瓦礫を何度もかぶりながら、二人はほふくのまま必死になって、うつ伏せの越智の襟と腕を引いた。なんとか壕の入口がある窪地までたどり着き、三人は低い土手を転がり落ちた。ようやく砲撃圏外に脱出することができたのだ。土手に退避していた兵たちがそれと気づき、集まってきた。
「越智少尉が背中をやられました。後送願います」
知花が息を切らしながら真っ暗な周囲に告げると、「将校か」という声とともに数人が歩み寄り、担ぎはじめた。越智は苦痛と疲労でさらに呼吸を荒げ、ぐったりとしたまま二人の手を離れて運ばれて行った。
依然として砲撃は続いていたが、雲に覆われていた月が現れたようで、照明弾の届かぬ土手の下もかすかに明るさを取り戻した。気がつくと源のすぐ目の前に、部下の少年兵たちが佇立していた。
「おう、おまえら、四人とも無事か?」
源は薄明かりを拾うように自身の顔の角度を変えながら、元気そうな四人の顔を確認した。遅れて知花も合流した。改めて周囲を見まわすと、黒くうごめく兵の数はかなり多かった。どうやらそこは、夜襲部隊の集結地点のようだった。
「独立混成四四旅団の先遣隊か?」
部下たちと無事を確認し合っていた源に、傍らの男が話しかけた。
「あっ、はい」
「四四旅団の本隊はさきほど到着し、そのまま西側に展開したようだぞ。ここは我々第六二師団、選抜隊の集結地だ。これから切り込む」
影になって階級章は見えなかったが、軍刀をにぎっていたことから、その男は若い下級将校のようだった。ぞろぞろと方々から集まりはじめた兵たちは一○○人前後の大所帯で、みな緊張し殺気立っていた。
「一個小隊の突撃か…」
その無言の気迫に圧倒されて、六人はすごすごと壕への緩い斜面を下がって行った。疲れた脚を引きずりながら土手の斜面をさらに下り、ようやく司令部壕の北入口にたどり着いた。
外よりいくらか明るい壕内に入ってすぐ、少年兵の一人が源に尋ねた。
「兵長、本隊を追求しますか?」
うつ向き加減だった源が言葉を返そうと頭を上げたとき、壕の壁をくり抜いた一角が目に入った。
「…オマエたちは、この先の西出入口付近で待っててくれ。やり残したことがある」
源は前方を見据えたまま四人に告げると、知花を伴いその一角に向かった。そこは陣地壕内に設けられた臨時の野戦診療所だった。横たわる一◯数人ほどの負傷兵に混ざって、越智が応急措置を受けていた。砲弾片を取り除き止血と消毒がほどこされ、ちょうど担架に乗せられて、更に後方へと送られるところだった。源は担架を持とうとしていた軍属の一人をはね除け、知花に目で合図を送ると、自らそれをつかんで診療所をあとにした。
●越智の自白
何となく源の目論見に気づいた知花は、担架の後方を担当していたもう一人の軍属の肩を軽く叩き、自分と交代するよう促した。担架の前を源が、後ろを知花が持ち、壕の東側出入口をすり抜けて荒廃した首里城脇を進み、大きな窪地の底にあった砲孔で二人は担架を降ろした。あたりは相変わらずの暗闇だったが、月明かりとまだ燃え燻る樹木のせいか、そこだけは互いの顔が視認できる程度の明るさを保っていた。
源はポケットから煙草を取り出すと、ゆっくり火を着けて一服吸い込み、それを越智の口にくわえさせた。疲労感を癒すように首を垂れ、そのようすをながめていた知花の目の前に、次の瞬間、思いもよらぬ光景が現出した。
人気がないことを確認するために周囲をうかがっていた源が、いきなり鬼気迫る形相で越智の眉間に銃口を突きつけたのである。意識がもうろうとする中、うつろな目をゆっくりと開閉させていた越智は「何ごとか」と驚愕し、双眼を大きく見開いた。
「何の真似だ? オマエ、上官への反逆がどれほど重いか…」
「小隊長は群馬県の水上に行ったこと、ありますよね」
越智は横くわえした煙草を吸い込むことも忘れて固まったまま動かず、数秒間の思案ののちに弱々しく発声した。
「…ああ、一度だけ…」
「何しに行った?」
たたみかけるように源が尋問した。
「ま、まだ憲兵隊に入って間もない頃だ、確か…、誘拐犯の逮捕のためだったと記憶している」
「誘拐犯?」
意外な返答に驚き、源は動揺した。
「そ、その誘拐犯の名は?」
越智は銃口が押しつけられた眉間のシワを深め、しばらく必死に思い出そうと記憶を探っているようすだったが、「あっ!」という声とともに、八方に分散させていた視線を源の双眼に戻した。
「よ、吉澤…。吉澤惣平、…まさか」
「そうだ、惣平はオレの父親だ!」
目の前で何が起こっているのか理解できず、知花は二人の顔を交互に見ながら、ひたすらうろたえた。暗がりの中だったが、見下ろす越智の顔から、しだいに血色が失せていくように見えた。
「貴様、父を撃ったんだよな、ご自慢の『モ式』で」
源はゆっくりと小銃のボルトを引いた。その冷たい金属音に促されるように、震える越智の口が大きく開き、くわえていた煙草が転がり落ちた。
「こ、このことは黙っていてやる、…だから銃を降ろせ」
源は無表情のまま、引き金にかかる右手をゆっくりと絞り込んだ。越智は額一杯に冷や汗を浮かべ、懇願した。
「オ、オレには、帰りを待っている身重の妻がいるんだ、命だけは助けてくれ!」
源は、なおも威圧するような鋭い眼光と射撃態勢を維持したまま、抑揚のない冷徹な言葉をくり返した。
「父を撃ったんだな」
銃口からそらした視線を彷徨わせていた越智は、意を決したように切迫したやや大きな声で言った。
「いや、オレは撃っていない、本当だ! 第一オレたちの目的は…、オ、オレたちは『セコ』役だった。『マッパ』は…」
そのとき背後から大声が轟いた。
「誰か居るのか、吉澤兵長か?」
源は慌ててボルトを戻し、威嚇するように越智をにらみつけると踵を返した。
「はいっ、吉澤であります!」
「西の出入口でオマエの部下が待っていたぞ。それに井上大尉が探しておられた、すぐに部下を連れて旅団司令部に出頭するように」
源の気迫に圧倒され、越智は黙秘の確約を目で合図し薄汚れた担架の布地に顔を伏せた。そのようすを確認すると、源は小首を一振りして知花に同行を促し司令部壕に戻った。
●シュガー・ローフ
その後、源たちは本隊と合流し、希望のない首里攻防戦を戦った。特に激烈を極めたのは、五月一二日からはじまったシュガー・ローフ、または五二高地と呼ばれる安里東の丘をめぐる死闘だった。
首里攻略のための戦略的要衝である当地に、米第六海兵師団は戦車一一輛と精鋭部隊を投入した。防衛軍も、「ここが取られたら首里は守り切れない」と判断し、第六二師団と独立混成第四四旅団から残存部隊を結集して、絶対死守の決意で臨んだのである。
米軍は狂ったように狭い丘に砲爆弾を集中し、まるでいかなる生物の存在も拒絶するかのように、寸土ももらさず焼き尽くした。これに対し、爆雷を抱えて戦車に飛び込む日本兵の自爆攻撃も、あたりまえのようにくり返され、頂上は取りつ取られつの血みどろの地獄と化した。