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ゆきの谷

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 満州で経験した突撃を冷静に思い出し、疲れの元になった大声を止め、装備の入った重たい背負い袋や雑のう、弾薬入れ、水筒などを降ろした。水や食料、補給弾薬などは、言うまでもないが死んだら必要なくなる。もし突撃後も自分が生きていれば、それは自動的に敵が全滅したか敗走したことを意味するわけだから、そのときはゆっくりと取りに戻ればいい。だからオレは、突撃時の装備は降ろすことにした。そして小銃は両手で持たない。
 重心のまん中を左手だけでつかんで走る。その方が疲れず、かつ振り子の原理で速く走れるからな。緊急に射撃が必要になった時には、銃の重さを利用して左手を前へ振り上げる。そして右手で袂をキャッチする。そうすれば右手の人差し指を引き金にかけるだけで、すぐに射撃態勢が取れる。右手でつかんでいたら持ち代えなくてはならんし、両手ではまったく手が振れない分、走るのに難義する」
 興味深そうに聞き入っていた知花は、反すうするように大きく何度もうなづき、視線を前方に戻した。
 源は、ビルマでの最初の突撃のときのこと、田所曹長が加藤小隊長を射殺したあの忌わしい一件を思い出した。もし「上官射殺」という断じてあってはならない事件の一部始終を、純粋で正義感の強いこの少年兵に詳らかにしたら、いったいどんな反応を示すのだろうなどと考えながら…。

●夜間の戦闘

 睡魔に押され、源の意識が薄れはじめたそのとき、前方がまぶしく光った。焼けるような熱風と、ドドーンという大音響、直下型地震のような振動が同時に源を襲った。慌てて頭を上げ前方を見ると、無数の曳光弾と照明弾が視野を占め、白一色に染まって何も目視できなかった。源の経験は、それが敵の強襲の前兆であることを容易に推測した。
 ゆうに一○○ミリを超えるであろう大口径榴弾が、まるでスコールのように降り注いだ。必死に地面にしがみつく源と知花に、土砂や金属片、そして生温かい肉片と血液が八方から浴びせられた。
 激しい爆音は遠近、大小織り混ざり、火薬と煙り、腐臭と生臭さが交錯し、二人の五感はいやがおうにも地獄の戦場に支配された。激烈を極めた米軍の砲撃は、三○分ほどで突然止んだ。源が顔を上げたとき、地面を焦がすわずかな残り火に照らされた周囲は、もはや半時間前のそれとはまったく異なっていた。
「知花、大丈夫か? 敵が来るぞ!」
 源の押し殺した小声の問いかけに対する応えは、意外にもすぐとなりではなく、かなり前方から聞こえた。
「大丈夫です。…敵の前進の気配は今のところありません」
「?…。オマエ、どこに居る」
「はい、兵長から一時の方向、およそ七メートルほどの新しい砲孔にいます。敵砲撃の最中に移動しました」
 知花は、源が教えた狙撃兵の行動パターンである『拠点移動』を実施したようだった。
「バカモン! 攻撃時でもないのに移動してどうする。しかもこの暗がりの中、敵が打ち込んでいたのはカノン砲ではなく榴弾砲だ。狙われるはずないだろう…」
 源がくどくどと説教していると、突然、後ろから大きな物体が飛び込んできた。源が驚き小銃を突きつけると、聞き覚えのある太い声が聞こえた。
「四四旅団の越智少尉だ」
「……」
 源が驚き沈黙していると、越智は苦しそうに呼吸を荒げ、震える声を絞り出した。
「今の砲撃で背中をやられた」
 源は闇の中、手探りで越智の肢体を突き止めると、大きな背中を両手でまさぐるように弾辺を探した。
「越智小隊長、自分は先遣隊の吉澤源であります」
「吉澤…、ああオマエか」
 顔の表情まではうかがい知ることはできなかったが、越智の険しい呼吸の合間の口調は、わずかに安堵感をたたえていた。
「…もっと下だ、腎臓をやられたかも知れん」
 手の平をさらに大きく広げ、両手を下方に這わせていると、指先が鋭い鉄の塊に触れた。
「熱い!」
 源は思わず指を引っ込め、自身の耳タブをつかんだ。越智は苦痛のうめき声を上げ、絞り出すように言った。
「…吉澤、それを抜き取ることはできるか?」
「今は取らん方がいいでしょう。大出血しますよ」
「…しかし、熱くて…、痛くてかなわん」
 そのとき、前方の知花が押し殺した声で告げた。
「敵が来るようです」
「まずいな…。小隊長、少し我慢していてください」
 そう言い残すと源は孔をするりと抜け出し、一時の方向へほふくした。
「兵長、あそこです」
 知花は臨戦体制を自覚したのか、源を階級名で呼んだ。その横にもぐり込んだ源は、彼が指し示す方向に小銃を構え、素早く照準眼鏡をのぞき込んだ。
「照明弾が上がったときだけ、わずかながら敵が見えるなあ」
「やりますか?」
「やりますかって、凄い数だぞ。それに照準器のないオマエの銃では無理だ」
 知花は無念そうに黙り込んだ。
「オマエは元の孔に戻れ。負傷した越智小隊長がおられる」
「えっ、小隊長が?」
 源は、一つ深呼吸をすると知花の耳もとに小声でささやいた。
「オレは小隊長から聞かなければならんことがある。だから死んでもらっては困るんだ。オマエ、小隊長を後送し手当てを受けさせてやってくれんか」
 知花は何か聞きたそうに一瞬ためらったが、すぐに孔を出て下がっていった。押し寄せてくる米兵の無言の圧力に耐えながら、源は冷静に考えた。そしてすぐに結論を導き出した。
「押し寄せる大波を一時的に止めるには、優秀な狙撃兵が新たに配備されたことを敵にわからせるしかないな。新しい狙撃銃のお披露目だ…」
 溜め息にも似た独り言をつぶやくと源は、新品のはずだがすでに泥だらけの九九式狙撃銃を構えた。
「タン、タン、ターン」
 狙撃兵のセオリーとは逆に、それとわかるよう敵集団の前列から続けざまに三人をしとめた。
「やはり、いい銃だ」
 ゆっくりと照準器から目を離し、まだ硝煙に煙る九九式を撫でながら源は敵のようすをうかがった。案の定、前進は止まり集団の黒い影は一斉に伏せたまま、しばらく動く気配を示さなかった。(頼む、そのまま後退してくれ)源は祈るように見つめていた。
 再び照準器をのぞき込むと、もぞもぞとうごめく幾つかの鉄かぶとが視認できることに気づき、その最も突出した一つを狙って狙撃した。黒いうごめきは機敏に反応し、一斉に下に動いたかと思うと、じりじりと遠ざかっていった。
 正面に展開していた敵集団の後退を確認すると、源も知花と越智を追うように後方へ下がった。
「敵が後退したから、すぐにまた砲撃がはじまるぞ!」
 源の言葉を聞くと、知花は越智を担いで孔を出ようと、動きはじめた。負傷者を引きずる音と苦痛に耐える越智のうめき声が漆黒の闇に混ざり合った。目を慣らすように音のする方向を見やっていた源の背後から「ヒュー」という鉄塊が空気を切り裂く独特の音が幾つも響きはじめた。
「来たぞー」
 源は、周囲に潜んでいるであろう部下や多数の友軍兵士たちに聞こえるような大声で叫び、身を折り曲げた。
「ドーン、ドドーン」
 最初の爆音は、ほぼ正確に源が狙撃した砲孔に着弾した。(や、やっぱりアメリカはすげーな)源は声にならない声で感心しながら、再び上がりだした照明弾の明かりをたよりに、越智の奥襟を掴んで引っ張る知花を見つけ、手を貸しながら一緒に下がった。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋