ゆきの谷
源は、調子を合わせるように聞いたが、田所の耳には届かなかったようで、素顔に戻るとしばらくの沈黙のあと逆に源に問いかけてきた。
「オマエ、怖くないか?」
「…何がです?」
「何がって…、今夜、オレたちは間違いなく死ぬだろ」
源は田所の本音に少々驚いた。長年、最前線を闘いぬいてきた歴戦の大男が本気で怖がっている。頬が痙攣するいつもの癖が、その緊張の度合いを明示していた。(そういえば、あのときもそうだった…)。志垣上等兵の提案を否決する際に、頬は小刻みに痙攣していた。
「この期におよんで、今さら死ぬも生きるもないでしょ。もうとっくに、何度も死んできたようなものですから…、なるようになれですよ」
体調不良のせいか思考がまとまらなった源は、言葉を整理することを放棄して、思いつくままにぶっきらぼうに応えた。しばらく黙ったままうつむいていた軍曹は、吹っ切れたように明るい表情で源に向き直った。
「それもそうだ、なるようになれだな。…ところで吉澤、これまであちこちの部隊を渡り歩いてきたが、オマエとはずっと一緒だった。これも何かの縁だと思わないか?」
今度は何を言い出すのかと、源は田所の顔を擬視した。「つっこみ」のタイミングを逃さないためである。
「実家の住所を教えておくから、オマエのも教えてくれ。万に一つ生きて帰れたあかつきには、連絡を取り合って再会しようじゃないか」
神妙な表情の田所に、源は戸惑いつつ、「はぁ…」とうなづいた。田所は、さっそくしわくちゃの汚れた紙片を取り出し、素早く住所を書いて源の目の前に差し出した。
「……、軍曹が金沢なのは、何度も聞かされていましたから知っていましたが、どことなく群馬っぽいですよね」
「何が?」
「そのしゃべりですよ。群馬か栃木の訛が混ざっているように聞こえてならないんです」
田所は目を丸くして、驚いてみせた。
「オ、オマエすごいな。実は入隊前の五年間を群馬で過ごしたんだ。オレは一六歳で奉公に出されたから。多分、そこで群馬弁が染みついたのだろう。むかつく家だったので、出たくて仕方なかったんだ。だから最後は自分から進んで入隊した」
田所が差し出した別の紙片に、源も住所を書いた。
「何だ、こりゃ。ミミズのほふく訓練か? 乱筆で読めん」
「軍曹の目が悪いんじゃないですか?」
「そんなことはないさ…、あぁわかった。読めたぞ、水上か! ほお…、近いな、目と鼻の先だ」
「ミズカミと読まずにちゃんとミナカミと読むあたりが、やはり群馬的ですね。奉公先は群馬のどちらだったんですか?」
「沼田だ。水上とは概ね二○キロぐらいしか離れておらんだろう」
「ぬ、沼田ですか。そりゃ確かに近いですね」
田所が機嫌良さそうにニコニコしていたのは、恐怖感と極度の緊張を彼なりに抑えるためだったことに、源は今頃気づいた。
小隊長代理に呼ばれて笑いながら腰を上げかけた田所に、源は一言声をかけた。
「田所軍曹、金沢の自慢話はこれまで何度も聞かせてもらいましたから、次の機会には水上の自慢話にもつき合ってくださいね」
「ああ、でもオレは、あの辺にはいい想い出がないんだ。ある女性とのことを除いてな…」
田所は一瞬振り返り、ニッと笑って走り去った。源は(ある女性っていうのは、初恋の人?…)などと考えながらその大きな背中を見送った。
ぞろぞろとみなが立ち上がり、いよいよ出発のときを迎えた。源も人生最期となるであろう休憩の終了を惜しみつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「『生きて帰ったら再会しよう』…か。住所は地獄の四丁目と書いておけばよかったなぁ」
雨はようやく上がり、あたりはすっかり薄暗くなっていた。隊列の先頭は田所軍曹だった。(なるほど緊張していたはずだ)と、源は思った。おそらく英軍から鹵獲したというパンを持ってやってくる前の打ち合わせで、先頭を命ぜられたのだろう。
道らしい道は地雷や仕掛け爆弾の懸念があったため、少し外れたやぶの中を歩いた。誰もがこわばった顔で、寡黙だった。先頭を行く田所の背は丸く固まり、「あの大男がここまで縮むものか」と感心するほど首をすぼめ、視線は前方に釘付けになっているようすだった。その後ろ姿は、見ているだけで息苦しくなるほど緊張感にあふれていた。
源は、射撃の腕には覚えがあった。しかし陸軍でも評判の名狙撃手だった父とは子どもの頃に死に別れたため、特に伝授された記憶はない。よって、人はその才能を「遺伝子のなせる業」などと讃えた。だが、いくら精密射撃が得意であろうと、日中でも薄暗いジャングルにおける一斉突撃では、単なる敵機関銃の的の一つになることしか許されず、とてもその能力を発揮することはできない。
源はそのもどかしい思いを噛み締めつつ、よろめきながら歩く多くの「的」たちとともに、黙々と進んで行った。
●名誉の負傷
一時間ほど歩いただろうか、ようやく陣地らしきものが見えてきた。縦長だった隊列が田所軍曹のすぐ後ろで大きな団子になり、何人かのささやく声が聞こえた。一戸小隊長代理を中心に、下士官たちが突撃時の段取りと展開を談合しているようだった。
源は左翼への展開を命ぜられた。田所は反対の右翼へ布陣した。カエルと虫の混声合唱を耳にしながら最期のときを待っていた源は、自分が不思議と落ちついていることに気づいた。
(死ぬ間際というのは、意外とこんなものなのかな)などと考えながら、全力疾走の邪魔になる種々の装備をはずしてその場に置いた。すると、ほどなく小隊長代理の絶叫が源の耳をつんざいた。
「今だー、突撃!」
展開を終えてから間もない号令に戸惑いながらも、腹ばい状態から素早く身を起こし、源は力の限りまっすぐに駆け出した。周囲の戦友は恐怖を払拭するために、みな思い思いに叫んでいた。
「天皇陛下、バンザイ!」は意外に少なく、ほとんどは聞き取り不能な単なる絶叫だった。源は、敵弾がいつ飛んでくるかという恐怖よりも、凄まじい形相で走りながら絶叫する周囲の戦友たちの並々ならぬ気配に、より恐怖を感じた。
すぐさま前方が昼間のようにまぶしく光り、探照灯に浮かび上がった日本兵に向け、小銃、機関銃、速射砲、山砲、迫撃砲など、ありとあらゆる銃砲が一斉に火を噴いた。激しい爆音と同時に、源に向かっても無数の赤い火の玉が次々と飛来した。時折耳をかすめる「シューン、シューン」という、空気を切り裂く弾丸のうねりに首をすくめながら、それでも源は左手に持つ小銃を振り子代わりに前後に振り、その反動を利用する独特の走法で走り続けた。
次の瞬間──、源はほぼ同時に、探照灯が双眼を捉えたまぶしさと、「ヒューン」と近づく機銃弾の飛来音と、左大腿部への熱い衝撃に襲われた。
恐怖感や痛みすら感じる間もなく源は前方へ一回転し、左へ下る傾斜を転がり落ちた。目を閉じても開けても映るものは黒一色だった。わずかに残ったかすかな源の意識は「そのとき」を実感し、深い闇の中へ消えていった。
──「源、起きなさい。起きなさーい。学校に遅れるよ!」