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ゆきの谷

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 実際には、第一五軍司令部の中にも、上級機関のビルマ方面軍やその上の南方軍、さらには東京の大本営や参謀本部内にも、反対者が少なくなかった。その論旨の大半は「まず不可能」であり、仮に作戦が成功してインパールを攻略できたとしても、前述のルートを介しての補給・輸送が困難なため、とうてい維持はできない。結局、敵の反撃に容易に屈し、「すぐに明け渡すことになるのだから、リスクをおかして実施する意味も意義もない」という当然のものであった。
 だが、名将として勇名を馳せた「秀才」牟田口中将は、この作戦を「たやすいもの」と本気で考え、自信を持って強引に推進したのである。
 その自信は、兵の数に勝る(…が、装備に劣る)中国軍を連破し、一、○○○キロにおよぶマレー半島快進撃(敵は少数弱体)を成し遂げた実績に基づくおごりと、「精神国家日本の皇軍に不可能はない」という、当時の陸軍軍人にまん延していた幻想的な迷信を根拠としていた。
 牟田口中将が押し進めたインパール作戦の内実は、①当該地域の自然条件(地形、気象など)に対する驚くほどの認識の甘さ ②兵站(後方支援=補給・輸送)への徹底的な軽視 ③敵(英国・インド連合軍の装備や部隊規模、頑強な防衛陣地の構造など)に対する犯罪的な無知または軽視 ④致命的な制空権無視…という、およそ軍事行動の実施に不可欠といわれる重要要素をほとんど欠いた、驚くべき軽率な根拠に彩られていた。
 源が予感したインパール作戦の失敗と悲惨な結末は、その遥か以前の、立案当初から保証されていたといえる。

●いよいよ「玉砕」のとき!?

 それでも源が所属する「弓(第三三師団)」の先遣隊は、兵力の半分を失う激闘を続けながらも、インパール盆地の南側入口付近、トルブンに到達した。
 開戦以来、兵力の消耗が続き、師団を構成する大小の各部隊は再編成をくり返していたが、この頃になると、小隊規模の中隊や中隊規模の連隊まで出現する始末であった。また「皇軍の小隊長、中隊長たる者」は、先頭に立って闘うことを「当然あるべき模範」としていたために損害も多く、下級将校の不足が深刻化していた。そのため、本来少尉や中尉が担うべき小隊の指揮を、曹長や軍曹などの下士官に代行させざるを得ないケースも珍しくなかった。今回、源が配属された新しい小隊にも将校はおらず、一戸という東北なまりの曹長が指揮をとっていた。
「よおっ、また一緒だな」と、聞き慣れた声に迎えられて振り向くと、大男が笑っていた。いくつか所属部隊を移ったが、なぜか田所軍曹とはいつも一緒だった。
「さすがに軍曹も痩せましたね」
 浅黒い顔が、微笑んだ。
「オマエもだな。上の連中はろくな喰いもんも出さんでイクサしろって言うんだから、お互い苦労するよな…」
 作戦開始からすでに六週間余りが経過していたため、出発前に支給された三週間分の糧秣はとっくに底をつき、泥水をすすり、雑草で喰いつなぐ苛酷な進撃となった。もはや五月も中旬を過ぎ、心配していたスコール(豪雨)は予想をはるかに超える規模で襲いかかってきた。
 最前線の山の斜面では、陣地を死守するために、兵は各自が一人用の塹壕(通称タコ壷陣地)を掘って身を潜めた。敵の展開次第では、何日もその壕で過ごさなければならない。
 地面を叩く雨水は濁流となって行き場を求め、塹壕の中にも容赦なく流れ込んできた。ほとんどの場合、泥水は中に潜む兵の首付近にまで達し、さながら冷水の湯舟に浸かるようだったという。
 粘度質を含んだ冷たい泥水は瞬時に兵の体温を奪うが、彼らにとって辛かったのはそればかりではなかった。眼前の敵は、無数の機関銃や速射砲で昼夜を分かたず四六時中警戒しているため、用便のための外出さえも命取りとなる。したがって、やむを得ず「冷水風呂」に浸かったままの状態で処理せざるを得なかったのだ。
 栄養失調と不衛生、身体の冷却化などにより、ほぼ全員が極度の下痢を発症していたため、壕の泥水は猛烈な悪臭を放った。さらに、ときには腐敗の進んだ戦友の死体の一部や腐汁まで流れ込み、随所の塹壕は形容しがたい不衛生状態に陥っていた。それでも喉の乾きを抑えるためには、その汚水を飲むほかなく、元々栄養失調やマラリアによって衰弱しきっていた兵たちは、たちまちチフスやコレラを発症しバタバタと倒れた。
 源はかろうじて、これらの病気はまぬがれたが、もはやこれ以上はないぐらいに痩せ、消耗し切った体力は限界に近かった。盆地手前の斜面に布陣していた源の部隊は、敵の計画的後退のおかげでようやく悪夢のような塹壕から這い出ることができた。
 一戸小隊長代理の点呼に応じてよろよろと集まった兵は三分の一以下の、わずか四○人足らずに激減していた。その弱りきった兵たちの顔をぐるりと見渡すと、小隊長代理は思いつめた表情で上からのなおも苛酷な命令を告げた。
「今から敵を追尾する。敵が防御陣地を完成させる前に突撃し、後続する本隊進出の足がかりをつくれという命令だ」
 努めてゆっくり話す小隊長代理の東北訛の語調には、その激烈な内容とは裏腹に、温かい人間味を感じた。引きつった金切り声でどなりまくる若い小隊長たちが多い中、貴重な存在であると思えた。
「インパールはもう目と鼻の先だ。…上の話じゃ、このインパール作戦は大東亜戦争を勝利するための最後の苦しみだと…、ま、がんばってくれ」
「いよいよ玉砕か」と、源は覚悟を決めた。
 一旦小休止となり、出発までのわずかな時間、源たち兵隊は雨をさけるため、大木の根元に腰を降ろした。しばらくすると、下士官たちの打ち合わせを済ませた田所軍曹が、源を見つけてやってきた。
「吉澤、いいものをやろう」
 田所はニコニコと笑いながら、ポケットから赤いシミのついた丸い物体を二、三個取り出した。よく見ると、それはパンのようだった。
「英兵の死体のポケットに入っていたものだ。お前たちで喰え」
 田所はそう言うと、堅いパンを二つに割り次々と手渡した。大木のまわりにいた数人が飛びつき、久しぶりの「本物」の食糧を夢中でほうばった。
 田所軍曹はよほど機嫌がよかったらしく、家畜なみの勢いで無心にパンを食す青黒い兵隊たちの顔をいつまでも笑顔で見つめていた。
「軍曹は食べないのでありますか?」
 ほっぺたをふくらませたまま源が質問すると、田所は言った。
「オレはもうあっちで喰ってきた。血のついてないやつをな…」
 源はパンについていた「赤いシミ」を思い出し、咀嚼を止めて眉をひそめ、田所をにらみつけた。しかしほかの者は、田所の言葉が聞こえていたにもかかわらず、まったく気に留めるようすはなく、久しぶりの味覚を楽しんでいた。源も今さら気にするようなことではないと思ったが、つきあいの長い源にはこれが田所のユーモアであることがわかっていた。
 その粗末なユーモアに応えて、あえて怪訝そうな顔をして見せたのである。案の定、田所は源の反応を確かめると楽しそうに高笑いした。その横顔には、当然のことながら加藤小隊長を射殺したときの緊張でこわばった表情はみじんもなかった。
「そんなに、おかしいですか?」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋