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ゆきの谷

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 その頃源は、新しい九九式狙撃銃に慣れるための射撃訓練に没頭していた。「兵器博士」とアダナを付けた知花二等兵をはじめ、五人の部下を与えられ、分隊とは独立した小隊長直属の狙撃班をまかされたのだった。
 源は、この島の戦いも結局最後は山に隠った戦闘になると判断し、連日玉城の丘陵地へ出かけ、若い部下たちを猛訓練していた。
「走れ走れ、そこまで走ったら伏せて狙撃だ。休むな!」
 源は、射撃の基礎訓練、つまり銃器の扱いや平常姿勢での制止目標への射撃練習などはわずか一日で切り上げ、全力疾走や木登りの最中、または直後の動体目標への精密射撃を反復練習させた。自身の経験から、戦場では運動や動揺などによる心拍異常状態が常であり、敵は当然のことながらほとんどの場合動いているからである。また、メンタル・トレーニング、死を恐れぬ武士道精神、比嘉や山元が説いた、恥じを恐れぬ欧米的戦争観も合わせて叩き込んだ。ようするに、自身が持つすべてを若い隊員たちに注ぎ込んだのだ。
「苦しくても止めるな、辛くても泣くな。歯を喰い縛ってがんばれ。…この訓練は、沖縄や日本のためではない。天皇陛下や両親のためでもない。ましてや、オレのような上官のためでもない。自分が生き抜くためなんだ。そのことを忘れるなよ!」
 吸収の早い若人たちは、泥にまみれ体中アザや擦り傷、マメだらけになりながら実戦的な射撃の技術を着実に向上させていった。
 源自身は、はじめて使用する照準器の扱いに苦慮していた。
「オイ、知花。またレンズの端が曇っているぞ」
「吉澤さんの汗と体温が原因でしょう」
 知花はヘトヘトになった身体を草原に放り投げて大の字を形成し、途切れる息の合間に吐き捨てるような口調でそう応えた。

●「独立混成四四旅団」北上

 源は、山元がそうしたように自身の部下たちには、戦闘時以外は階級名をつけずにフランクに呼ばせていた。それは、単に親交を深めたかったからだけではなく、彼らの口を滑らかにしておくことで、源にとって未知の戦場である沖縄についての、地理的知識を得やすくする考えがあったのだ。
「湿気じゃないのか?」
「それもあるかも知れません。湿度が高いのは本土も同じでしょう、温暖な海に囲まれている沖縄の湿気は塩分を含んでいますから、金属部分の腐食やそれに伴う変形、欠損に注意してくださいね」
 源は射撃姿勢を止めて笑った。
「オマエ、いったい何年戦うつもりなんだ? 銃が錆びてくる頃には、とうに戦いは終わってるだろう」
 隊員たちの哀し気な笑い声が、玉城の山野にこだました。
 この頃、源の脳裏には、ペリリュー島に上がって来る圧倒的な米軍の威容が去来していた。今度の敵も、ここ(本島南部)へ水しぶきを舞い上げながら上がって来る米上陸部隊であると信じていたからである。ところが前述のとおり、源の予想に反して独立混成第四四旅団司令部には、北上命令が届いていた。佐敷の本隊では、慌ただしく出陣の準備が始まっていたのだ。基地に戻りそれと知った源は、部下とともに小隊に合流し、慌ただしく佐敷を出発した。
 一個旅団(一万人弱)という大所帯の移動である。当然のごとく源の小隊には輸送車輌は割り当てられず、徒歩による北上が開始された。
 首里方面に向かうこの行軍は難儀を極めた。日中は常に敵機が上空を支配しているため、移動が夜間に限られていたからである。夜明けとともに「大休止」を命ぜられても、さんさんと注がれる陽光の直下では暑くてまともに眠れるはずもなかった。心地いい木陰やきび畑は、常に上級者の定位置となっていたことは言うまでもない。
 若い源の小隊は先遣を命じられたため、一泊二日をほぼ不眠不休で踏破し、首里に入ったときにはへとへとに疲れ果てていた。…が、防衛軍の戦況は、彼らの休息を許すほどの余裕はなかった。到着の申告のため、第三二軍司令部を訪ねると、部隊名もろくに聞かれず、すぐさま首里城周辺の陣地に直行させられた。さらに一時間ほど歩き、指定された陣地に到着した源は、薄闇の中に望見した周囲のようすに戦慄を覚えた。
 すでに首里城は原形を留めることなく破壊され尽くされており、地面を敷き詰めていたのは、バラバラ、粉々になったその破片と味方将兵の無数の死体だったのだ。幾重にも折り重なったその異臭を放つ小山は、日没を迎える弱々しい南国の西陽を浴び、どこまでも無限に続いているかのように連なって見えた。
「…確かに、ここはビルマやペリリューとは比較にならないほどの地獄だ…」
 カタリナ哨戒艇を見つめながらつぶやいた比嘉の悲観的な警告が、決して大げさなものではなかったことを、このとき源ははじめて悟った。

●突撃のコツ!?

 例によって、敵が開けてくれた大きな砲孔が源たちの配置場所だった。源は目をこらして周囲を観察し、登る樹木も身を隠す建物跡もないことを知ると、五人の部下を二人づつ三組に分け、急きょ砲孔を整えただけの即席塹壕に分散配備した。細かな指示を終えて自身の孔に身を伏せた源は、目を閉じて大きな溜め息をついた。
「ここは狙撃兵の技術が活きる戦場ではないな。部下には狙撃技術よりバンザイ突撃のコツを教えておけばよかったよ」
 源が苦々しく皮肉をつぶやくと、傍らの知花が、すかさず尋ねた。
「バンザイ突撃のコツってなんですか?」
 神妙な面持ちで緊張し、自身の余命を憂いて落ち込んでいると思っていた知花が、ひょうひょうとした口調で質問してきたことに、源は意外感を覚えた。
「…それはな、『バンザーイ』を口だけ動かし声を出さないこと。それから、突撃前に装備をすべて降ろすことだ」
「…?」
 知花の怪訝そうな沈黙が、源に解説を促した。
「訓練のとき言ったろ。死ぬために戦うんじゃない、生きるために戦うんだと。五キロ近い銃剣付きの小銃を両手で持ち、二◯〜三○キロの日常装備を背負ったまま、大声で『バンザーイ』などと連呼しながら全力疾走してみろ、すぐに息が上がって射撃や格闘どころではなくなる。そんな無駄なことは、死にたいヤツラがやることだ。
 生きるために戦う奴はそんなことはしない、声は出さずにいわゆる口パクでやりすごし、銃は片手に持って走る。その方が疲れずに速く走れるからな。そして装備はすべて降ろしていく」
 知花は続きを求めるように、目を輝かせた。
「オレはこれまで三度経験した。一回目の満州のときは、もう死ぬんだと思ったから、指示されるままに力一杯『バンザイ』を叫んで走って行った。両手で小銃を構え、二○キロの全装備を背負い込んだままな。ところが運よく敵の支那兵が腰を抜かして敗走してくれたから助かったが、敵陣に到着したときは、脚はもつれヘトヘトになって倒れ込んでしまった。二度目と三度目はビルマだった。そういえば、そのときの突撃は、いずれもあの田所曹長と一緒だったなぁ。ビルマの敵は支那兵ではなく、機関銃や迫撃砲を余るほど持っている英軍だったから、間違いなく全滅するだろうと考えた。だが、不思議と心の底では、何となくオレだけは死なないような気がしていた…。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋