ゆきの谷
昭和二◯年三月一◯日、四万八、一九四発の各種爆弾を投下し、死者八万八、七九三人、負傷者四万◯、九一八人という甚大な犠牲者を出した東京大空襲のとき、一見、帝都の夜空を覆いつくしたかのように思えた第一波攻撃隊B─29の数は、三三○機だった(一五○機という説もある)。ところが、終戦時の稼動数は実に二、一三二機であり、さらにボーイング社の生産工場に発注されていた分だけで、なんと五、○○○機以上にのぼっていたのである。
よく、日米戦は「大人と子どもの喧嘩だった」などと評されるが、兵器における技術力と物量に限って比較すれば、その実情は「大人一○人対ひ弱な子ども一人」の戦いだったに違いないと源は推断し、悲哀の溜め息を連発した。
いずれにせよ海軍には陸軍のように沖縄県民と兵士を見捨てる考えは毛頭なく、菊水一号作戦は予定通り発動された。そして四月六日夜半、戦艦大和以下、巡洋艦矢矧、駆逐艦冬月、涼月、磯風、浜風、朝霜などの計八隻からなる第二艦隊は、沖縄を目指して出撃した。
広島の呉に停泊していた大和以下の艦隊主力は、機雷封鎖されていた関門海峡を避け、豊後水道を南下した。しかし同海域を哨戒していた二隻の潜水艦に発見され、その動向は米海軍第五八機動部隊に逐一通報されていた。
これを欺くため、第二艦隊は何度か進路変更をくり返したが、翌七日の昼過ぎ、坊ノ岬沖でついに敵艦載機一五○機を迎えることとなった。ヘルダイバー急降下爆撃機、アベンジャー雷撃機などの米艦載機は、まるで象に群がるハエのように、巨大戦艦大和に次々と襲いかかった。
命中爆弾六、魚雷九本を受けて、一四時一二分に大和の速力は一二ノットに落ちた。その八分後にはさらに致命的な魚雷一本を受け、巨体は左に二○度傾斜する。そして昭和二◯年四月七日一四時二三分、ついに沈没。
伊藤艦長以下乗員二、四九八名が、艦と運命をともにした。ほかに巡洋艦矢矧と駆逐艦四隻も撃沈され、残った艦四隻が生存者を救出し佐世保に帰還した。結局、菊水一号作戦による戦死者は、三、◯四七一人にもおよんだ。ちなみに米軍の損失は、わずかに艦載機一○機のみである。
この記録を承知した戦後の源は、深く考え込んだ。この一戦は、比嘉が力説した「敵に物資の消費をまったく強要しない自殺(この場合は艦船なので自沈)」とは異なるが、そのあまりに多い犠牲者の数と一方的な展開、そして微々たる戦果を鑑みると、結果的に集団自決と何ら変わりがないと結論づけざるを得なかった。
前述のとおり、「沖縄とそこに展開する兵を見捨てるわけにはいかない」という海軍の精神は賞賛に値するが、実は、これには別の背景事情があったのだ。
一説では「陸兵(海軍陸戦隊も含む)や航空部隊が死闘をくり返し玉砕を続けている最中、海上部隊だけが何もしないで瀬戸内海の奥地(呉軍港)に隠居している」という一部の批判に押され、動かざるを得なかったという説である。もしそうだとすれば、沖縄救援を口実に「わかりました、死ねばいいんでしょ」的な自暴自棄作戦を遂行したことになる。
インテリ揃いの優秀な海軍首脳たちが、かくも勝算のない無謀な特攻作戦を発案し実行した不可解な経緯に照らすと、大いに考えられる説である。まさしくこれは、比嘉が恐れた「一億総玉砕」の呪縛がもはやあらゆる日本軍民に派生し、「戦わずに生きていること」、または「戦って死なないこと」を許さなくなっていた一つの証といえる。明らかに常軌を逸した…、狂気である。
●首里攻防戦
本島の死闘の舞台は、すでに嘉数や西原の丘陵地帯にまで南下していた。嘉数高地周辺の防衛軍陣地は、最も堅牢な首里防衛線に直結していた。
一般に、攻撃側と守備側の大きな違いは、前者は機動を主体とし、後者は陣を敷いて動かざることを旨とする。したがって守備側は、常に敵の攻撃力を凌駕する、より強固な陣地を欲する。沖縄の日本軍も例外ではなく、首里一帯の第三二軍司令部周辺は、膨大な労力と時間と資金を費やして要塞化してきた経緯があった。よって防衛軍将兵は、本陣を「何としても守り抜く」という悲壮な決意に燃えていたのである。その決意は戦意となって燃え上がり、嘉数高地の戦闘は激烈を極めた。
わずかの高台や砲撃によってできた穴をめぐり、昼夜彼我入り乱れて奪い合った。一進一退の消耗戦は果てることなく続き、業を煮やした米第二四軍団長ホッジ少将は四月二◯日、日没までの嘉数高地占領を配下の第二七師団司令部に厳命した。防衛軍側も増援部隊を得て蘇生し、進出を阻止すべく重砲弾の雨を惜し気もなく米軍の頭上に集中させた。
双方ともに損害を重ねるも膠着した戦線はほとんど動かず、優勢なはずの米軍は、二四時間をかけてわずかに数一◯メートル進むのが精一杯なほど勢いが鈍っていた。この状況を打開するため、ホッジ少将は「耕し戦法」を考案した。これは、地下壕に潜み神出鬼没の切り込み攻撃をくり返しては再び地下に逃げ込む防衛軍を一気に駆り出し殲滅するため、地下壕を一メートル、いや三○センチ単位で徹底的に粉砕する(耕す)作戦だった。
四月一九日早朝、沖合いの輸送船から緊急出動の増援部隊が続々と上陸した。そして六時四◯分、戦線に配備されたすべての銃砲と砲撃可能な全艦艇、六五○機の艦載機など、投入可能な兵力を総動員した「耕し作戦」が開始された。
あっという間に、与那原、稲嶺、首里の一帯は、真っ赤な火炎と黒煙に包まれた。野戦砲や艦砲が着弾するたびに地面は揺れ、艦載機がナパーム弾を投下するたびに、新たな炎が地表を覆った。この攻撃により、首里陣地周辺は完全に焼き尽くされ、防衛軍は甚大な損害を被った。しかし、防衛軍とは比較にならぬほど軽微だったとはいえ、ジワジワと消耗を重ねていた米軍には、もはや首里本陣の防衛線突破のための手段を選んでいる余裕はなかった。なんと米第二七師団は「耕し作戦」だけでは満足せず、日本軍顔負けの「夜間切り込み攻撃」まで敢行したのだ。
防衛軍も必死だった。先の米軍総攻撃で驚異的な物量とその凄まじい破壊力をまざまざと見せつけられた日本兵は、いやがおうにも玉砕を覚悟させられた形となり、むしろ開き直りにも似た、死を恐れぬ捨て身の抵抗を展開したのである。特に、南上原、仲間高地、前田地区での戦闘は壮絶を極め、夜間の白兵戦においては、血しぶきと肉片を振り払いながらの死闘がくり返された。
折り重なる死体をかき分け、血溜まりをほふくする米軍の前進は、一日に一メートルほどに落ち込み、朝をむかえて明るくなると、周囲は筆舌に尽くしがたい凄惨な光景が、どこまでも広がっていた。
首里攻防戦における防衛軍の消耗は激しく、主力の第六二師団はすでに兵力の五○パーセントを失っていた。しかし、別地点への米軍再上陸に備えて首里以南に配置されていた、第二四師団、第五砲兵隊、海軍陸戦隊、そして源が所属する独立混成第四四旅団はまだ無傷で残っていた。四月二二日、もはや米軍の南部への再上陸はないと判断した第三二軍司令部は、第二四師団と独立混成第四四旅団を首里攻防戦に投入すべく北上を命じた。