小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ゆきの谷

INDEX|46ページ/91ページ|

次のページ前のページ
 

「米軍による日本軍評に、『兵は優秀、下士官は良好、中・下級将校は凡庸、上級指揮官は愚劣』という行があるが、大本営、第一◯方面軍、第三二軍から第一線部隊に至る陸軍全体を見渡してみても、異論の根拠はどこにも見当たらない…」
 こうして米軍の上陸以来、緒戦の日本軍は有効な組織的軍事行動をほとんど取ることなく一方的に叩かれ続け、いたずらに犠牲者を積み重ねていった。そのほとんどは、米軍に優秀と言わしめた「兵」と、「無敵皇軍」が護ってくれることを信じて、軍に献身的に協力した地元住民であった。

●海軍の決意と「特攻」

 四月六日、連合艦隊は「菊水一号」作戦を発動した。これは、世界一の巨大戦艦大和を主力とした第二艦隊による海の特攻作戦である。航空護衛のない艦隊が沖縄へ突入しても「成功の見込みなし」と断定した大本営はこれに反対したが、連合艦隊司令部は「沖縄を失うことは堪えられぬし、現地防衛軍の死闘を傍観し見殺しにすることは偲びがたい」と出撃の主張を取り下げなかった。
 これまでの海戦で航空母艦のほとんどを失っていた連合艦隊は、すでに随伴させるべき航空機動部隊を持ち合わせていなかったため、第二艦隊の護衛にあたった戦闘機も、燃料が半減するとすぐに陸上基地に引き返さざるを得なかった。
 空母を失った艦上戦闘機はすべて陸揚げされ、そのほとんどが「特攻隊」に当てられていた。洋の東西を問わず、近代戦争史上前例のない組織的な体当たり自爆攻撃「神風特別攻撃隊」は、攻撃を受けた米海軍将兵だけでなく、一般の日本国民を含む全世界を驚愕させた。隊員のほとんどが、一◯代、または二◯代の若者だったことからも、その悲劇性は大きくクローズアップされたのである。
 特攻作戦は、海軍航空隊の先駆者、大西瀧治郎海軍中将の発案とされている。当初選ばれた機体は、爆弾搭載量に余裕のある九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機などの大型航空機だった。
 このため、若干の武装も残されていたが、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や陸軍の一式戦闘機「隼」などの小型機の場合は、搭載許容量が乏しかったためそうはいかなかった。
 敵艦船にダメージを与えるためには、少なくとも二五○キロ以上の爆弾が必要とされており、それを搭載するためにゼロ戦や隼からは機銃はもちろん、照準器、防弾装備など、自爆攻撃に不必要(?)なものはすべて撤去された。また、重量軽減と貴重な資源を節約するため、片道分の燃料しか搭載しなかったことは有名である。
 各々の搭乗員の判断による個人的体当たり攻撃は、真珠湾攻撃の際もその前の支那事変でもわずかにあったが、指揮官が承認した組織的な攻撃は、昭和一九(一九四四)年一◯月二五日のレイテ沖海戦が最初だった。当時はまだ命令による作戦という形式ではなく、志願制だったが…。
 応戦する米艦船の甲板からも識別可能な大型爆弾を抱え、迷うことなく一直線に突入して来る特攻は、緒戦に限っては大きな成果を挙げた。米海軍にとって特に深刻だったのは、艦船の物理的損害よりむしろ将兵への心理的影響だった。ノイローゼや発狂者が続発し、艦艇の士気が崩壊した例もあったという。このレイテ戦で部下に作戦を持ちかけ、出撃する若人を前に「自分もあとから行くから」と訓示を述べた指揮官が、ほかならぬ「特攻の父」大西中将である。
 しかし米軍は、のちに自ら「今次大戦における、原爆に次ぐ最強兵器」と絶賛した「V・T信管(近接爆発信管)」を、すでに完成させていた。これは、ドップラー効果を利用した特殊な電波を放つ砲弾用の信管で、英国の技術者が考案し、一九四○年に米国に伝えたものである。
 通常の対空砲は、地上発射型・艦船発射型を問わず、目測により距離を測定し爆発までの所要時間を算出、砲弾の時限装置に一発づつ設定してから打ち上げなければならない。したがって目まぐるしく動きまわる目標(敵機)に当てて落とすことは至難の技だった。当時最も優秀だったとされるドイツ空軍の高射砲部隊でも、敵一機を撃墜するのに平均三、四○○発、高々度だと一万発を要したといわれる。
 ところがV・T信管の場合は、砲弾時限装置への設定が不要である。打ち上げられた砲弾は、自ら半径一◯数メートルの範囲に電波を放ち、目標がそれに触れるとドップラー効果によって起爆筒が作動し爆発、目標を確実に撃破する。もし電波が目標を察知しなかった場合は、打ち上げより四○秒後に自爆する構造になっていた。
 万一不発弾が回収されて敵に知られることを恐れた米英連合軍は、それが不可能な海戦で使用することを決め、レイテ沖海戦から遡ること四ヶ月前のマリアナ沖海戦で、はじめてこの新兵器を試用した。効果は絶大で、日本の航空部隊は米艦船に近づくことすらできずに殲滅され、以降、海軍は航空機を主兵器とする空母機動部隊の運用を放棄せざるを得なくなったのである。
 大西中将が放った初期の特攻には混乱した米海軍だったが、指揮官らの懸命の鼓舞によって正気を取り戻し、V・T信管付き対空砲などで応戦したため、たちまち特攻の成果は激減していった。それでも沖縄方面における特攻作戦は、米艦隊が沖縄上陸作戦のため慶良間近海に集結しはじめた三月下旬頃から本格化した。
 三月二六日からの六日間だけでも、約一○○機の特攻機が必死の猛攻を続けたが、そのほとんどを失い、米艦隊に与えた損害はきわめて軽微だった。その上、日本海軍の象徴ともいえる戦艦大和の特攻出撃を決定した海軍には、陸軍とは違った沖縄戦への壮絶な覚悟が、背景にあったのである。
 大本営や陸軍省、参謀本部には「台湾・沖縄は所詮外地であり、そこでの戦いは本土決戦の準備のための時間稼ぎである」という思想が根強くあった。しかし海軍は沖縄を日本本土の一部と考え、九州や本州での防衛戦と同等の決意のもとで総力戦体制を敷いたのだった。後日、このことを知った源は、陸軍の無定見に閉口せざるを得なかった。
 戦後に判明した沖縄戦後の米軍侵攻計画は、陸軍の言う「正真正銘の本土」である九州南部と、それに次ぐ千葉・九十九里に予定されていた。陸軍は、沖縄を「時間稼ぎ」と既定していたが、仮に沖縄戦終結が実際より三ヶ月、あるいは六ヶ月延びたところで、軍艦や戦闘機、戦車といった主要兵器は簡単に整備できるものではなく、せいぜい竹槍の改良と土嚢の上積み程度が関の山であったであろう。「時間稼ぎ」にどれほどの意味があったのか、大いに疑問が残る。
 実際には、最新型の陸軍四式戦闘機「疾風」や海軍局地戦闘機「震電」、ロケット戦闘機「秋水」などの優れた新兵器の計画は進んでいたが、出現があまりにも遅過ぎ、実戦ではほとんど活躍していない。しかし、例えこれらが一○○~二○○機そろったところで、米軍の物量に抗しえるはずはなかった。なぜならば、一つの例としてレシプロ四発重爆撃機の最高傑作といわれた「B─29」の数を見ただけでも、それは明らかである。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋