ゆきの谷
「…オマエはいいヤツだな。軍の教えとは違うが、確かにそういう考えもあるよな。でもなぁ吉澤、少し違うんだ」
「…? 何がですか」
以前からそうだった。この男が話の流れを不自然に反転させるときは、つまらないギャグをかます前兆であることを、源は熟知していたので眼球に力をこめて…。構えた。
「オレは英軍の捕虜収容所で喰いまくった。敵に消費を強要した食糧は、一個小隊分はあったはずだ。決して『わずか』ではなかった。ワッハハハ…」
源は両手の平を空に向けて首をすくめ、むっとした表情をつくった。英国人風の反応で応戦したのである。
二人は瞬時に呼吸を止めて周囲を見まわし、鬼小隊長の姿がないことを確認すると、吹き出すように大笑いした。しかしまたしても源は笑いながら、憂鬱な別の事を考えていた。(自分の経緯も白状したかったが、そのタイミングを逸してしまった)と…。
しばらくすると田所は笑いを止め、手ぶりで「話は変わるが」と源を諭し、一呼吸おいて眉間のシワを深めた。
「ときに吉澤、あの越智少尉には気をつけろよ、ヤツは曲者だ。何かしでかして憲兵隊を首になったらしいが、軍内部有力者のイヌだったという噂がある。その有力者の密命で、暗殺などの特殊工作にたずさわっていたらしい。標的になった者はわが陸軍軍人も少なくなかったようだ。
歩兵に転じ前線に飛ばされてからは、行く先々で上官に気味悪がられ、あちこちを転々として来たらしい。無表情で何を考えているのかわからんし、怒りっぽい。おまけにあのガタイと風貌だからな、無理もないよな。ただ…、オレは、以前どこかで一度あいつに会っているような気がする。それがどこだったか、いつのことだったかは思い出せないが…」
源は田所の越智評を聞き、確信にも似た衝撃と興奮を覚えた。暗殺、憲兵、大男、狙撃名人、七・九二ミリ小銃、そして指の癖…。この男は、父の遺体の状況と兄が目撃した「現場に居合わせた謎の私服男」の特徴のすべてを満たしていたからだ。
旧友の意外な反応に困惑する田所には目もくれず、越智がまだ居るであろう食堂の方角を見据えた源は、力強くこぶしをにぎり心の中でつぶやいた。「父を殺した犯人は、ヤツに間違いない。石狩ともつながっているはずだ」と…。
●米軍「慶良間列島」に上陸
昭和二◯(一九四五)年三月二六日、A・D・ブルース少将の率いる第七七歩兵師団が、慶良間諸島の阿嘉島、慶留間島、外地島、座間味島、屋嘉比島に上陸した。日増しに激しさを増す本島への空襲や艦砲射撃のようすから、米軍の上陸も間近であると思われていたが、よもや慶良間に上がるとは日本軍は想定していなかった。
「まずは来ない、もし来るとしても本島の制圧が一段楽してから」というのが、日本側の一般世論となっていたのだ。しかし米軍は、本島まで三二キロと近く、複雑に入り組んだ地形と四○メートル以上の水深を持つ本諸島の海峡は、大形艦船にとって格好の停泊地となるため、かねてよりここを本島攻撃のための拠点、補給基地兼休息地として重視していたのである。日本軍にはその戦略的重要性が見抜けず、配備した防衛布陣もきわめて貧弱だった。
元々慶良間には、本命視していた本島西海岸への米軍上陸時に、敵船団を背後から攻撃するための特攻艇基地が置かれていたが、それも米軍の慶良間上陸直前に、主力を本島に移してしまったため、残ったのは赤松嘉次大尉率いる海上挺進第三戦隊の三三○人(特攻艇約百隻)と朝鮮人軍夫二一○人、現地召集兵七○人、計六○○人余りだった。したがって米軍の上陸侵攻はスムーズに進み、ほとんど抵抗らしい抵抗にも遭遇することなく、一日でほぼ全島を占領してしまった。
しかし──、この美しい島嶼でのささやかな戦闘の陰で、後世に語り継がれるおぞましい悲劇が秘かに進行していた。非戦闘員、つまり住民らによる集団自決である。
この作戦における死傷者は、日本軍一五一人(捕虜を含む)、米軍一一二人だったが、自決した住人の数は双方の合計の実に二・六倍に達した。
戦後に編集された防衛庁の「沖縄戦記録」は、次のように述べている。
「米軍の慶良間列島上陸は、座間味村及び渡嘉敷村において老幼者の集団自決という非惨事を招来した。その自決者は両村あわせて七○○人(厚生省資料)という。この集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮がきわめて強かったことがその根本的理由であろう。小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つ崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた…」
なぜこのような悲劇が起きたのか──。戦後しばらくしてから、源は自分が本島南部に赴任していた同時期に、さほど遠くない慶良間で起きたこの悲劇を知って驚愕した。
銃砲声が間近で轟く戦場の異様な興奮状態の中、敵に追い詰められて逃げ場を失った将兵や一部の住人が自害するさまは、源も承知していた。しかし、これほど大規模な非戦闘員の集団自決は聞いたことがなかった。
この悲劇は、戦前の一方的かつ強引な軍国主義教育がいかに「常勝」を前提としていたかを証明する事例であると、源は考えた。
「神の国『日本』の民は、天皇の軍隊に守られている。あの支那やロシアをも負かした無敵皇軍が、自由主義で軟弱な英米ごときに負けるはずがない」といった幻想は、国内の隅々にまで行き渡っていた。国家の指導者も、国民に教育する教導関係者も、そしてそれを受ける側も同様にである。
満州事変を調査したリットン調査団の「満州国は正当な独立国にあらず、これ日本の侵略なり」という報告に反発し、国際連盟脱退を宣言したときの松岡洋右外相の威風堂々とした演説と退場のようすを知った国民は、「まさにこれは日本軍の自信の現れであり、全世界を敵にまわしても無敵皇軍は絶対に負けない」と信じ込んだに違いない。大東亜戦争に突入して行った過程でも、あるいは大戦の全期間をとおして…。
ミッドウェー、ガダルカナル戦以来、敗走を続けた日本軍だったが、その実態は国民だけでなく前線の将兵にまで隠蔽されていた。
よって国民の多くは「旗色はあまりよくないかも知れん」が、よもや我が無敵皇軍が玉砕につぐ玉砕を重ね、一方的に敗走していたとは夢想だにしなかったに違いない。おそらく慶良間の住民も。そして、いざ自身が戦火に巻き込まれた途端に、圧倒的な米軍の攻勢に驚きパニックとなる。自分たち非戦闘員は、間違いなく皇軍が護ってくれると信じていたのに、皇軍将兵は自分たち以上にパニック状態に陥り殲滅されていった。あるいは「捕虜になるぐらいなら…」と住民らの目の前で、手榴弾を頭に押しつけ砕け散った。
こうした惨状を目の当たりにした住民は立ちすくみ、配られるままに手榴弾を受取らざるを得なかった。そこに軍からの「死の強要」があったことは明らかだ。住民を追い詰めたのは戦前からの軍国主義教育と、軍人の自虐的なまでの自尊心、「民軽軍重」とでも言うべき、恐ろしいまでの国民軽視の思想、そしてあまりにも現実離れした「常勝の妄信」。