ゆきの谷
突然、鬼小隊長が助手席の窓から大きな頭を突き出し、大声で怒鳴った。五人は慌てて発声を止めて口を一文字に閉じ、首を縮め黒目だけを左右に忙しく動かした。そのようすを見た源は、濡れた双眼を再び細めた。
「ハハハ…。やっぱり、子どもだ」
明るかった空が夕暮れに支配される頃、トラックは知念半島の付け根、佐敷町に到着した。源と五人の少年兵は、鬼小隊長に先導されて独立混成第四四旅団司令部に案内された。独立混成第四四旅団は、鈴木繁二少将が指揮する文字どおりの寄せ集め集団だった。
沖縄配備が決まり、当地へ向かう途中で乗船「富士丸」が米潜水艦に撃沈され、部隊の九割におよぶ約四、○○○人の将兵を失うという悲劇に見舞われ、生き残った数百人を核に再編成された部隊であった。しかしそれでも、上層機関である第三二軍司令部からは精鋭部隊と期待され、本島南部太平洋側地域の防衛をまかされた。
六人を迎えたのは、第一五連隊第二大隊長の井上大尉とその副官だった。
「やぁ諸君、御苦労。貴様が狙撃手の吉澤か?」
「はい、吉澤源じょうと…、兵長であります。この度は原隊である第一五連隊に復帰させていただき、また、昇級の栄誉をいただき、ありがとうございました。郷里の仲間とともに戦えることを誇りに思い、命を投げ出して任務を全うする所存であります」
井上大尉は満足そうにうなづいたが、顔をしかめ表情を曇らせた。
「連隊旗はまだパラオだ。精鋭を誇った高崎第一五連隊もバラバラになってしまった。実はこの大隊も、かなりのチャンプル(ゴチャ混ぜ)部隊でな、補充された兵の出身地もバラバラだ。出征以来の群馬県人がどれほど残っておるか…」
大尉はそう言うと、五人の少年兵に目を移した。五人は、瞬時に直立姿勢を更に堅く改めた。
「諸君らは現地召集兵だな。若いのにご苦労だが、国家の存亡がかかったこの時勢を理解し、精進して欲しい」
五人は無言まま、口元を引き締めて敬礼した。大尉も素早く答礼したが、右手を降ろすと憂鬱そうに頭を垂れた。
「先月中旬頃から、沖縄中の男女中等学校で学校単位の防衛組織が結成されはじめたことは諸君らも知っていると思うが…、つい先ほど首里での作戦会議から戻られた鈴木旅団長から聞いた話では、昨日、中学生男児によって『鉄血勤皇隊』なる少年兵部隊が編成されたということだ。
男子だけでなく、女子生徒たちも次々と従軍看護婦として軍に配属されている。会議に同席された海軍特別陸戦隊の大田実少将も、『沖縄県民の献身的な協力には頭が下がる』と、感服しておられたということだ。
我々陸軍がもっとしっかりしておれば、沖縄の民間人にこんな思いをさせずに済んだんだがなぁ。まったくもって面目ないよ」
五人はまだあどけなさの残る眼差しで、無表情のままうつむいて話す大尉を見つめていた。
(鉄血勤皇隊…)。源は、印象的なその勇ましい名称を心の中で反復し、現地の少年少女を巻き込んだなりふり構わぬ日本軍の強い姿勢に、何ともいえぬ不安感を抱いた。そして《米海軍最強艦隊がやって来る…》という比嘉の言葉を思い出した。(非戦闘員さえも総動員しかねない防衛軍の狂気と、米軍最強部隊が衝突したら…。今度の闘いはこれまでとは違う、ただでは済まんぞ)という無気味な兆候を感得していた。そして、ビルマの渓谷に散ったあずさの亡骸を思い出した。
「従軍看護婦か…」
恒例儀式である着任の挨拶が済むと、六人は副官に先導されて裏の兵舎に移動した。案内された一室は、長大なテーブルが三本横たわる広い食堂だった。例によって粗末かつ貧相な献立ではあったが、源は久々の食事にありついた。…はずだった。
育ち盛りの少年兵たちは、目の色を変えて夢中で食べまくり、その勢いに圧倒された源は呆然とそのようすを傍観していた。そして、あっという間に全部をたいらげた知花が、もの欲しそうな熱い視線を源の皿に向けたのだ。
食べるタイミングを逸した源は、心の中で(しまった!)と悔やんだが遅かった。源はこの中で最年長であり、最上級者である。
「…………………。もし、よかったら…」
悲しいかな、そう言わざるを得なかった。みなまで言う前に、源の皿は瞬時に目の前から遠ざかって行った。
ささやかな《悲劇のランチタイム》が終わる頃、鬼小隊長が入室して来た。手には、鈍く光る重厚な小銃がにぎられていた。
「モ式か…」
日本陸軍の制式名「ドイツ製モ式小銃」とは、一八九八年(明治三一年)にドイツのモーゼル社が開発し同年制式採用されたGew98をベースに、一九三五年に改良されてKar98kとなった槓桿式(ボルト・アクション)の元祖的傑作小銃である。口径は知花少年兵が述べた通り七・九二ミリだか、使用されるモーゼル実弾は日本の八ミリ弾よりも威力が大きく、凄まじい破壊力と貫通性能、長射程を誇る銃としても有名だった。
英米をはじめ世界中で造られたボルトアクション式小銃のモデルとなり、日本の三八式歩兵銃もこれを手本としたことは、すでに述べた。日本も研究用に少数の本銃をドイツから直接輸入したが、この頃陸軍が保有していた大部分は、中国国民党政府がドイツから買い付け、のちに「民国二三年式」の名でライセンス生産したものである。日中戦争の戦利品として日本軍が鹵獲し、歩兵部隊に再配給した経緯を持つ。
しかし源は、その優秀さは認めつつ、これらをはじめとする大きな威力が特徴の小銃を、武士道精神を継承する日本兵が使用することに違和感を覚えていた。
明治の近代日本誕生以来、日本陸軍の精神を支えていたのは、皇道主義と武士道の心である。西南の役で薩摩の若武者に手を焼いた陸軍総司令官山県有朋が、その強い結束力の根拠と頑な闘争心の源泉を分析した結果、若い彼らが神のように崇拝する「西郷隆盛への忠誠心」に行き着いた。
「国民皆兵」をスローガンに、旧武士に頼らない平民(ほとんどが農民)を中心とした新生陸軍の建設を推進してきた明治政府だったが、西郷のリーダーシップと薩摩の若武者たちに苦戦を強いられ、結局のところ元武士である警察官(廃業した武士の多くが警察官になっていた)の力を借りてかろうじて勝つことができた。これを教訓とした山県は、国軍を結束させる精神的支柱、つまり薩摩軍における西郷のような神格化したリーダーシップの必要性を痛感した。そしてそれを天皇に求め、以来、統帥の頂点に天皇を召した「皇軍」を形成し、国家神道色に彩られた「皇道主義」を陸軍の根本的思想としたのである。
しかしながら、日本伝統の武士道は平民が核となった新生陸軍にも受け継がれ、これが小銃の開発においても影響を与えることとなった。国策遂行の手段である戦争において、最前線の兵隊の戦闘は敵兵を殺すことが目的ではなく、あくまで作戦を推進するための障害の除去が目的であると考えられた。したがって新制式小銃に求められる機能は、「敵兵を戦線離脱させるための、銃創を負わせる程度のもので充分であり、それ以上の殺傷力は無用」というものだった。