小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ゆきの谷

INDEX|3ページ/91ページ|

次のページ前のページ
 

 結局、小隊長の亡きがらはその場に埋葬され、帰途について歩き出したとき、敵陣の方で銃声がした。驚いて振り返ると、志垣上等兵ともう一人が、重傷の敵兵を射殺していた。
 捕虜として連行することが不可能な容態であると判断したためか、小隊長の仇討ちだったのかはわからない。田所も立ち尽くしたまま、黙然とその光景を見つめていた。
 二人が戻り、歩きはじめた足取りは誰もが重たそうだった。それは行軍というよりも、むしろ収容所へ連行される捕虜のようでさえあった。前を行く田所軍曹のかかとを見つめながら、源は加藤小隊長のことを考えていた。
 彼は、確かに源の所属する部隊では特異な存在だった。下級将校たちも含めたほとんどの者が、このインパール作戦そのものを「無謀な作戦、不要なイクサ」と決めつけて上層部への不満を募らせる中、加藤少尉だけは違っていたのである。彼にとってそれは、小隊長としての立場上の建て前ではなく本音らしかった。
 物資が枯渇して味方兵力が消耗の一途をたどり、航空機を含む優勢な敵が総反撃を開始したこの時期におよんでも敗色濃厚な気配を認めず、ひたすら作戦の成就と最終勝利を信じていたその姿勢は、むしろ滑稽でさえあった。
 ほかの連隊では、大隊長、連隊長クラスの将校の中にさえ、立場上の建て前は何とか維持しつつ、作戦と上層部への不満や不審を露骨に公言してはばからない者が、かなり居たというのに…。
 また少尉の、部下に対するごう慢で辛らつな態度も反感の対象となっていた。それは、兵に厳しい「厳格な小隊長」の域を明らかに、大きく逸脱していた。部下への思いやりなど微塵もなく、少しでも異を唱える者を「臆病モノ」と罵倒し、しつこくいつまでも恨みを持続させた。自分にすり寄ってくる一にぎりの気に入った兵のみを特別扱いし、異様に可愛がる反面、戦功をあせって、多くの部下を無駄死にさせることもしばしばあった。最も可愛がられていた志垣上等兵以外のみなが、戦死した上官を儀礼的な敬礼のみで冷然と見送ったゆえんである。
 押しつぶされそうな重苦しい空気の中、ジャングルの道なき道を歩きながら、この一件は源に、漠然としたイヤな予感を想起させた。
 この頃になると糧秣の補給も途絶え、乏しい現地調達の雑穀だけに頼る慢性的な空腹状態は、将兵の士気はおろか、理性までむしばみはじめていた。…とはいえ、下士官が直属の上司である将校を感情的な理由で殺害するような状況では、敵に殲滅される前に、日本軍そのものが内部崩壊してしまうのではないか、…というそれである。
 はたして──、源のこの「イヤな予感」は、最も悲惨な形で的中することとなるが、そんな後日の事情など知る術もなく、薄暗いジャングルの切れ目から見えてきた小さな沢に目をやった。そこには、澄んだ清水が無数に咲き乱れる草花の間を縫っていた。
 つい先ほど繰り広げられた、人間どうしの凄惨な殺し合いなどとはおよそ無縁のその美しい情景に、思わず目を奪われて脚を止めた。源に気づいた何人かの兵も、同じように歩を止めて小川を見やった。細めた彼等のやさしい目は、ビルマの名も無い小川をとおして、はるか故郷の懐かしい情景を眺めているようだった。
 蒸し風呂のように暑く湿った空気の中、立ち止まる者にも無関心に歩き続ける者にも、彼らの運命を刻む時のうねりが、まるで小川の清らかな流れと同じように、とうとうと過ぎていった。

●無謀な作戦

 田所軍曹やほかの将兵たちが、不審を募らせていたこの「インパール作戦」は、昭和一八(一九四三)年の中頃から検討されはじめた。
 当時、中国の攻略が思いどおりに進まず苦戦していた日本軍は、連合軍による膨大な対中支援が障害になっていることを痛感し、これを断って中国の孤立化をはかろうと考えた。そのために、ビルマ経由の補給路、いわゆる「援蒋ルート(蒋介石の中国を支援)」の中継基地となっていた、インド東部マニプール州「インパール」を攻撃する、というのがこの作戦の狙いだった。
 また、インド領の一画に進出する本作戦は、同国の反英独立派チャンドラ・ボースの一派を支援し、英国のアジア支配を窮地に追い込むと同時に、インドの独立達成を日本の勝利の一つと位置づけて、日本全土を被う敗色ムードを払拭しようという側面も合わせ持っていたのである。
 作戦を担当するのは、ビルマ方面軍に所属する第一五軍。司令官は、牟田口廉也中将だった。
 牟田口中将は佐賀県の出身、陸軍士官学校を経て陸軍大学へ進んだ秀才である。陸大卒業後は参謀本部入りし、のちに軍務局へ勤務するなど、まずは申し分のないエリートコースを歩んできた。
 日華事変のきっかけとなった「蘆溝橋事件(昭和一二年七月七日)」に、歩兵第一連隊長として深く関わり、第二次世界大戦が火ぶたを切ったときも、海軍の真珠湾奇襲攻撃とならぶ陸軍のマレー半島上陸・侵攻作戦に、第一八師団長として参加。自転車部隊を率いた、有名な「マレー半島一、○○○キロの快進撃」で大活躍した。
 日華事変が、のちに支那事変→日中戦争→大東亜戦争(第二次世界大戦)へと拡大、発展していった経緯に照らすと、牟田口中将は自認するとおり、大戦の大きな節目に、常に主要な立場で関わってきたことに気づく。むろん、本人もそのことを自覚していたからこそこの大作戦を成功させて、暗雲の垂れ込めてきた今次の大戦争に転機をもたらそうと息巻いていたのである。
 牟田口中将が指揮する第一五軍は、第三一(通称=烈)、第一五(通称=祭)、第三三(通称=弓)の三個歩兵師団を中心とした約一○万人の兵力で、作戦期間は三週間とされた。
 インパールへの行程は約三○○キロ、これは東京─名古屋間に相当する距離である。しかも、その進路にはアラカン、ジュピー、パトカイなど、幾重にも縦走する二、○○○~三、○○○メートル級の山脈と、それを縫うように流れる無数の大河が横たわっている。ここを、ほぼ垂直に横断しなければならない。限られた二○余日間で、重さ三○キロにおよぶ重装備の歩兵群がである。
 また、インパール攻略期限、つまり作戦終了予定日を天長節(昭和天皇誕生日=四月二九日)としていたが、この地方は五月に雨季のピークを迎える。ビルマ・インド東部山岳地帯のスコールは、世界屈指の激しさで有名である。万一作戦がずれ込めば、凄まじい集中豪雨が連日襲いかかり、高峰の岩を削るように流れる渓谷は文字どおり激流と化し、斜面の山道は急流河川へ、窪地は湖沼へと姿を変える。
 このように、行軍だけでも不可能と思われる苛酷な状況下で、装備の優れた英国・インド軍との戦闘が、当然のごとく日常的に繰り広げられるわけである。天気の良い日中は、優勢な英空軍の戦闘機や爆撃機が空から容赦なく襲いかかる。田所軍曹をはじめとする第一線の将兵たちが、作戦を疑問視し、首をかしげるのも当然であったといえよう。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋