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ゆきの谷

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「一五連隊第二大隊長の井上清公大尉は千明大尉の親友なんだ。海軍情報部からキミが沖縄戦に志願したと聞き『ぜひ欲しい兵隊だから』と、オレに捜索を命令された」
 源は越智少尉の右手の指の動きを注視していた。指のタコは確認できなかったが、明らかに自分と同じ狙撃手のそれだった。
「そ、そうでありましたか、失礼しました。では、よろしくお願いします」
 少尉は一つ顎をしゃくるとおもむろに歩き出した。源も慌ててあとに続いた。無言のまましばらく歩くと、広く開けた場所に出た。小禄飛行場である。
「あそこの建物に行って来い、第四四混成旅団に転属になった旨と、名前を言えばわかるようになっている。オレはあのトラックで待ってるから、終わったらすぐに来い」
 左右を交互に指差しながら早口で言い終わると、越智少尉は源の顔を見ることなく、トラックに向かって歩き去った。少尉の横顔は、彫が深くそびえ立つ尖った鼻が特徴的で、どこか日本人離れした、むしろ白人のような精悍さをおびていた。
「何か、気に触ることでも言ったかな?」
 無愛想な少尉の態度に閉口しつつ、源は指示通り飛行場敷地内の木造建物に向かった。
「オチ…? どこかで聞いた名だが…」
 半開きになっていた扉を開けて中をのぞき込むと、そこは気忙しい役場のように人がごった返してした。机に向かって執務に没頭している者、大きな荷物を運び出している者、電話に向かって大声で怒鳴っている者など…。みな一様に、シミ一つない真っ白な夏用軍服を着た陸軍軍人たちだった。
 源はしばし呆然とそのようすをながめていたが、越智少尉を待たせていることを思い出し、慌てて出入り口付近で机に向かっていた若い兵長に声をかけた。
「あ、あのう…」
 そこは、参謀本部兵站部の出先機関だった。忙しい日常業務をこなしながら、第三二軍司令部のある那覇市東部「首里」に移転する準備を進めていたのだ。
 源は金線の飾緒の付いたまっさらな軍服を着た大尉から、新品の狙撃銃と「兵長」の階級章が付いた新しい軍服を支給された。昇進である。忙しいとはいえ「おめでとう」の一言もなく軍籍簿の記帳の合間に、そっけなく渡された軍服で知る昇進は少々切なかったが、世話になった海軍の軍服を脱ぎ、真新しい陸軍下士官の軍服に袖を通すと、自然に頬が弛んだ。
 一等兵が上等兵になっても一級酒が特級酒になるようなもので、所詮兵隊に変わりがないが、上等兵が兵長になるのは、日本酒が高級ウィスキーになるぐらい違う。もはや兵隊で一番偉い階級で下士官候補なのだから…と、源は妙な例えで自身のささやかな栄誉を祝福しながら、息苦しいタコ部屋をあとにした。源は、同時に支給された新しい小銃が気になって仕方なかった。
 本体は油紙に包まれたままだが、マガジンポーチの中の弾薬が妙に重たい。腰を落ち着けて観察してみたいところだったが、越智少尉の見えない催促に吸い寄せられるように、源はトラックへと急いだ。案の定、少尉はかなりいら立っていた。
「お待たせしてすみません」
 源は大げさなぐらいに息を切らして見せ、少尉の指示を待った。トラックの助手席に座っていた少尉は、やはり源の顔を見ることなく前方を見据えたまま無愛想に後ろの荷台を指差した。源が慌てて荷台によじ登ると、そこには五人の兵隊がすでに鎮座していた。軽く会釈をして腰を降ろすと、周囲の兵隊は源の襟章を確認した途端、硬直して敬礼した。答礼しながら見渡すと全員二等兵だった。
 やがてトラックはギシギシと大きな騒音をたてながら動き出した。しばらくは、みな黙ったままお互いの顔を見合っていたが、最上級者を自覚した源が、柔らかく口を開いた。
「このトラックはどこへ向かっているんか、誰か知っとるか?」
 源の少しとぼけた群馬訛の発声に、場の空気はすぐに和んだ。みな軽く微笑み、その中の一人が応えた。
「知念です、兵長殿」
 真っ黒に日焼けした少年兵だった。源はそのイントネーションを聞き漏らさなかった。
「ああ、現地召集兵だね、歳はいくつだ?」
 少年は一瞬表情を変えたが、すぐにあどけない笑顔に戻り白い歯をむき出した。
「はい、一七です。一ヶ月ほど前に入隊しました」
「一七か…、若いな。ところで知念ってどの辺なんだ?」
 源を本土出身者と理解した少年は少し考えたのち、荷台の床に指で沖縄本島の略図を描き、「このあたりです」と一点を指した。
「……? 糸満と小禄はどの辺だ?」
 要領を得ず、源が頭をかきながら地理的無教養を白状すると、少年はすぐに「ここが糸満で、ここが小禄」と指し示した。
 ようやく理解した源は、眉間にシワを寄せ険しい表情をつくると、素頓狂な大声でおどけた。
「なんだ! オレは今朝糸満に上陸してから、南部の同じようなところをぐるぐるタライまわしにされているんだなぁ」
 みな爆笑した。…が、すぐに一人が右手の人差し指を尖らせた口にあて、前方の助手席を見やりながら静止を促した。数秒間の静寂ののち、源がその兵隊に小声で質問した。
「少尉のこと、知っているんか?」
「はい、憲兵出身の鬼小隊長です。噂では、四国のマタギだった父の影響で、銃の腕は達者なようです。何でも、幼少の頃に薩摩に移り住み、お偉いさんの口利きで憲兵隊に入隊したらしいです。舶来のものすごい狙撃銃を持っているそうで…」
 源は、「なるほど」と納得した。狙撃兵はマタギの家系出身者が多い。ペリリュー戦で組んだ関川も、祖父が秋田のマタギだった。元憲兵というのもうなづけた。源の印象では、憲兵は陰湿で無愛想な者が多かったからである。
「ちょっと、日本人離れした風貌のようだが?」
 今度は別の少年兵が、身を乗り出した。
「はい。聞いた話では…なんでも…、欧州のオーストリアかドイツ辺りの血が混じっているという噂です。愛用小銃もドイツ製『モ式』だそうです」
 源は大きくうなづいた。
「半分か四分の一かは知らぬがゲシュタポ(ドイツ国家保安警察)の血筋なら陰険さも筋金入りだな」
 源のつぶやきが聞き取れずに呆然と見つめる少年兵を尻目に、源は以前聞き及んだドイツ人とユダヤ人の民族問題と、ある日本人外交官を思い出した。

●杉原千畝とユダヤ人、そして日本人とユダヤ人

 在リトアニア領事、杉原千畝。何でも、本国つまり日本外務省の命令を半ば無視して、ドイツ軍に追われた大勢のユダヤ人たちを助けた人道主義者の話である。
 日独防共協定をより強固な日独軍事同盟へと推進する方針だった日本政府は、盟邦ドイツの政策に反する杉原の行動を妨害したが、彼は本国からの厳命を聞かず、リトアニアを併合したロシア政府から国外退去を命ぜられたあとも、シベリア経由で日本を通過するためのビザを発給し続け、カウナスの駅から列車が出発するギリギリまでその作業を続けた。
 そして、結果的に六、○○○人以上のユダヤ人を助けたのである。
 源はこの崇高な仕事を貫徹した勇気ある外交官にいたく感動し、同時にユダヤ人を家畜のように扱い執拗に追い詰めたゲシュタポを軽蔑した。 「ドイツ人とは、かくも残忍なり」と…。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋