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ゆきの谷

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 源は山元に話したように、父の非命と数々の謎を語った。比嘉は眉間にシワを寄せたり、ときに大きくうなづき、あるいはこまめに確認の質問をし、メガネをずり上げながら沈思するなど、せわしく熱心に聞き入った。そして源が消え入るような小声で話し終えると、比嘉は額に散らばる玉の汗を拭いながらそのまま静かに考え込んだ。
「で、イシカリさんが憲兵を動かしてキミの父上を殺したと?」
「現段階では何とも言えんが、結城艦長の話が嘘や勘違いでないことは、あの方の人柄からしておそらく間違えないだろうと思うんだ。吉澤なんて名の兵隊は信州に限らず大勢居るとは思うが、妙に引っ掛かって仕方ないんだ…」
 比嘉は乾いた地面の一点を見つめたまま黙り込み、動こうとしなかった。それと気づいた源は、途端にいたずらっぽい笑みを浮かべ、短くなった煙草の吸い殻を比嘉の視野のまん中に投げ込んだ。我に返った比嘉は、首をかしげながら源に向き直り、諭すような口調で言った。
「いくら記憶をたどってみても、ボクにはパリで会ったあの温和なイシカリさんがそんなことをする人とは思えないよ。…でも、もしそうだとしたら、キミの父上がイシカリさんの逆鱗に触れるような、相当な恨みをかっていたということになるのでは。何か、その辺の心当たりはないのかい?」
 源はすかさず返答した。
「むろん、オレもそのことはまっ先に考えたよ。でも、地味で素朴で臆病なぐらい慎重な父の性格からしてあり得ないし、事実オレの知りうる限りそんな話は聞いたことがない…」
 二人が会話に没頭しているうちに「小休止!」は解除されたようで、みな再びぞろぞろと歩き出した。二人も悶々とした疑問を抱えたままゆっくりと腰を上げ、集団に続いた。
 無事に沖縄上陸を果した喜びは、すでに南部の糸満に忘れてきたかのように、源の大脳は父の事件への疑念と疑問で支配された。そしてなぜか船内で関川老兵から聞いた「横浜の病院」の話が、海馬の片隅に引っかかったままゆらゆらとたなびいていた。「病院」のキーワードで思い出した哀しい記憶、ビルマの野戦病院わきの谷で見た、激流の中をぐるぐると漂っていた白い物体とともに…。
 黙々と歩く集団の一人が脚を止めた。その視線の先には、ピンクがかった鮮やかな花が見事に咲き誇っていた。
「ツツジ?」
 源はまだ二月下旬だったことを思い出し、改めて沖縄が亜熱帯気候であることを再認識していると、比嘉が小声でつぶやいた。
「父の出身地は北部の東村というところでね、ツツジで有名な土地らしい。東京ではいつ頃咲くんだい?」
 源は興味なさそうにボソッと応えた。
「五月頃じゃなかったかな」
 心ここにあらずといった源の発声に比嘉が鼻白んでいると、突然、集団前方の数人が上空を見上げて騒ぎ出した。二人もほぼ同時に顔を上げると、はるか上空を一機の米軍機がのどかに飛行しているのが見えた。戦場に慣れた者であれば、非武装の偵察機の飛来にいちいち反応することはまずないが、集団の一部はかなり動揺したようすで、まるで凍りついたように歩を止めて、震えながら上空の一点を見つめていた。
 源は「ふん」と軽くうなづいただけで再び顔を下げ、脚を動かしはじめたが、となりの比嘉は動く気配を示さなかった。
「く、来る。…米軍は台湾ではなくここ沖縄に」
 震える比嘉の小声に気づき、源が訝し気に質問した。
「たかだか哨戒艇が一機飛来したぐらいで、その判断はちょっと尚早じゃないかね、米海軍情報部上等兵曹」
 比嘉は源の冗談混じりの問いに反応せず呆然と立ちすくし、キラキラと輝く機体を見つめていた。
「あのカタリナ哨戒艇は単なる末端部隊の偵察機ではなく、スプルーアンス大将直属の、つまり第五艦隊情報部の機体だ。中部太平洋機動部隊の主力が、台湾ではなくこの沖縄に来るということだ…」
 比嘉はなおも蒼白の顔面を震わせて佇立したまま、動こうとしなかった。源もさすがに不安になり、恐る恐る比嘉に尋ねた。
「中部太平洋機動部隊ってそんなに凄いのか…」
「ボクの知る限り、現時点での世界最強艦隊だ。おそらく陸軍と海兵隊の精鋭をどっさり運んで来るはずだ。日本軍がどれほどの防衛陣容を敷いているかは知らないが、ここ沖縄はおそらくサイパンやペリリューとは比較にならないぐらい、激しい攻撃に見舞われるだろう」
 源は、比嘉の悲壮感に迎合することはできなかった。なぜなら、例によって腰抜けアメリカ人のビビリ癖が出たのだろうという感想もそうだったが、何より、未知のサイパンはともかく、源の知るビルマやペリリュー以上の「激しさ」というものを想像できなかったからである。一つ小首をかしげただけで黙って歩き出すと、それと気づき一歩遅れて比嘉も続いた。
 カタリナ哨戒艇とその所属部隊を知らないほとんどの者も、上空を我が物顔で旋回する敵機と、それを迎撃すべき味方戦闘機が現れないこの現実に、悲壮感を増幅させざるを得なかった。誰もが、無言のまま味方機を求めて四方の空をめぐらしては溜め息をもらし、引きずる足音の重さを増していったからである。
 もはや、鮮やかなツツジの花に振り返る者はいなかった。

●元憲兵の鬼小隊長

 疲労感の漂う無言の集団は、ようやく小禄の宿舎に到着した。そこは以前、砲兵連隊が使用していた駐屯地跡だった。敷地に入ると、陸軍兵、海軍陸戦隊、現地召集兵、軍属など、様々な人が収容されていた。
 到着手続きを済ませ案内された二人は、別々の宿舎を割り当てられた。今生の別れを予感したのか、比嘉はいつになく神経質そうな顔で、源に目礼をした。源もそれに応えると、すぐに背を向けて足早にその場を去った。
 わずかな期間だったが敵として巡り会い、為になる色々なことを教えてくれた「戦友」とも呼べる相手だったが、源の心のどこかに比嘉を突き放したい感情が燻っていた。
「例え捕虜になってでも生きるんだ」という彼の発想が、頭ではわかっていても、軍国主義教育を叩き込まれてきた自分には、結局のところ心底理解できなかったのだろうと源は考えた。そして敵の潜水艦に命乞いをしたり、偵察機に怯んで見せたあのふがいなさが、生理的に許せなかったのだ。
 比嘉の視線を背中に感じながら、このときの源は感情の赴くままに、所詮は「敵国人」という現実を優先させたのである。
「よしざわげん上等兵はいるか!」
 源が割り当てられた大部屋へ入ろうとしたとき、大きな野太い声が耳をつんざいた。
「じ、自分ですが」
 振り返ると、少尉の階級章を着けた丸刈りの大男が書類を片手に立っていた。
「貴様が吉澤か? 自分は独立混成第四四旅団の越智耕吉だ。大隊長井上大尉の命令で貴様を迎えに来た」
 大男は、源の顔と着ている海軍服と襟章に次々と視線を配り、勘ぐるような険しい表情を形成した。
「井上大尉? 自分は存じませんが…」
 越智少尉は源を手招きし、苛立ちをこらえるようにややトーンを下げて一言発した。
「千明大尉は知ってるな」
「あ、はい。一五連隊第三大隊の千明隊長には大変お世話になりました。自分の原隊ですから一五連隊は。パラオのペリリューでも…」
 大男は、源の反応と即答で瞬時に本人と確認したらしくたたみかけた。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋