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ゆきの谷

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 ところが──、一九四四年一◯月、米軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、前述のとおり次期防衛拠点の重点の選定に迷った大本営は、一旦沖縄に配備した精鋭の第九師団を台湾に配置転換してしまう。第二八師団は宮古島に、第四五独立混成旅団は八重山、第六四独立混成旅団は奄美大島、歩兵第三六連隊は南大東島に分散配備したため、沖縄本島に残った守備隊は当初の三分の二、わずか七万七、○○○人程度となってしまった。
 また、一九四四年末からはじまった人事移動のせいで、第六二師団長や第二四師団の中核を成す歩兵第二二連隊長などは、米軍上陸のわずか二週間前に着任するありさまで、戦場の土地勘や地政学的研究・分析、現地住民の戦意・心情把握といった、防衛戦闘に不可欠な指揮官としての予備知識の集積もままならない状態だった。むろん、部隊の中核を成す部下の各級指揮官らとも、意思の疎通を育むにはあまりにも時間が足りなかった。
 ──それでも米軍はやって来る。牛島軍司令官、長勇参謀長、八原博通高級参謀ら守備隊主脳は、混乱する東京からの指示に困惑しつつ、手持ちの兵力による最善の「本土決戦」を模索して、ひたすら焦慮の日々を重ねた。
 一方この頃、はるか南方の太平洋上には牛島らが迎えるべく米軍の大部隊が集結していた。主力は、バックナー中将率いる米第一◯軍。第二四軍団(第七、第二七、第七七、第九六師団)、第三水陸両用軍団の第一、第六海兵団など、計六個師団が一、五○○余隻の艦艇とともに北上をはじめていた。
 それは、西太平洋方面に展開する米陸海軍のほとんどを動員した、総員五四万八、○○○人という、空前の大上陸部隊だった。

●沖縄上陸

 敵の大軍が自分の乗船を追うように北上していることなど夢にも思わず、源は後部甲板の狭苦しい一角に腰を落ち着けた。すぐとなりでは、比嘉が沖縄出身の兵隊を見つけてしきりに話し込んでいた。相手は黒人のように陽に焼けた、素朴そうな青年一等兵だった。おそらく(?)比嘉から漏れた「ここだけの話」によって、行き先が「米軍が来ない」沖縄であることは船内中に知れ渡っていた。
 すでに葛藤の螺旋を断ち切った比嘉は、むしろ晴れ晴れとした笑顔で、さっそく話し相手の本物の沖縄訛を真似ながら、日本陸軍一等兵になり切った戦場話しに熱中していた。
 支給されたわずかな干しイモをほうばっていると、突然、前方から絶叫が響いた。
「沖縄だ! 日本だ!」
 立錐の余地もなく甲板を埋めていた黒い塊が一斉に動き、一方向に視線を集中させた。そして一瞬間後、どよめきと歓声がわき立ち、感動の涙を交換し合った。
 晴れ渡った青空の下、鮮やかな緑色をした美しい島が遠くに見えた。それは、およそ半年後に沖縄守備隊が最期を迎える、本島南部の『摩文仁の丘』だったが、そのことを予感した者は、当然のことながら源を含めて誰もいなかった。そんなことよりも、護衛する戦闘機も駆逐艦もなく単独で航行を続けたおんぼろ輸送船が、敵艦船の集まる危険海域を無事にくぐり抜けた奇蹟に、乗員らはいつまでも欣喜していた。
 輸送船は喜屋武岬をまわったあたりから、いつの間にか現れた日本海軍の舟艇に先導され、糸満の漁港に入った。
「おいおい、漁村に陸揚げか? オレたちはまるで網にかかった魚だな。ハッハハ…」
「大方、那覇などの大きい港は連合艦隊の大群で埋めつくされているんじゃろ」
「いや、オレたちは上陸してくるアメリカに見立てられて、迎撃演習の的になるんじゃないのか?」
「そんなはずねえだろ。アメリカさんは一隻だけで、しかもこんなボロ船で来やしねえよ。ワッハハハ…」
「違えねえ。一○○や二○○は来るだろうからなハッハハ…」
 威勢のいい冗談や笑い声が飛び交い、さながら沖縄上陸はピクニックのようだった。
 石造りの桟橋に一歩を踏み下ろした源は、感慨深そうにその足元を見つめた。支那、ビルマ、ペリリューと渡り歩いてきた傷だらけのこの脚が、ついに祖国の地を踏んだのである。
「…本当に、お疲れさんだね」
 源は、後ろから押し寄せる人の波に小突かれながら、ビルマで負傷した大腿部をゆっくりと撫でながら、そうつぶやいた。見上げると、空は雲一つない晴天だった。海はペリリュー島と同じエメラルドグリーンに輝き、地面は白っぽく、土というよりむしろ珊瑚片の混ざった砂のようで、遠くに見える丘や山はまぶしいほどの青緑だった。ビルマやペリリューと同じように…。
 しかし、それら異国の地とはただ一つ違うものがあった。それは源の二つの耳が感じ取る「音」だった。源の鋭敏かつ精緻な鼓膜は、糸満の音の中に日本を感じていた。
 聞き慣れない沖縄方言のイントネーションではあるが、久しぶりに聞く婦人や子ども、老人たち大衆の日本語。遠くで鳴く遠慮がちな鳥のさえずり、粗末な草履を引きずるような乾いた雑踏の響きさえもが懐かしく思え、愛おしく感じられたのだ。
「うん、間違いなく日本だ。やっぱり日本はいいなぁ」
 一行は付近の集会所や学校に分散して収容され、負傷者はそのまま病院へ移送された。源と比嘉らは簡単な身体検査を受け、健康状態良好と診断され、那覇近郊の小禄に移されることになった。小集団を形成し、小禄までの一○キロほどを徒歩で移動する。選別されたのは、下船したばかりの健康な陸海軍将兵、少数の軍属、それからすでに命令を受けて漁港脇で待機していた現地召集兵ら三○人ほどの雑然とした集団だった。
 誰もが無言を維持し、困ぱいした疲労感を噛み締めるように足取りは重たそうだった。歩き始めて半時間ほど経った頃、源がおもむろに比嘉に近づき耳もとでささやいた。
「これからどうするつもりなんだ? まさか本気で米軍と闘うつもりじゃないだろう」
 比嘉はしばらく黙思していたが、意を決したように顔を上げ、源を見据えた。
「もう戦争はごめんだよ、民間人に成りすます。『教会有力者』は聖人だから、戦闘はしないはずだろ。経緯はともかく、結果的にボクは今日本に居るのだから、会いたい人を探して旅をしようと思うんだ。…まあ、状況が許せば、だけどね」
「会いたい人?」
「以前、キミにも話したイシカリ将軍だよ、ボクは彼を尊敬している。ご存命ならかなりの歳だと思うけど、ぜひ再会したいんだ」
 源は、再び比嘉が発したこの将軍の名に、反応せずにいられなかった。すでにこの頃になると、源の脳中で熟成された推理と憶測は、石狩が父の死に深く関わっていたであろうことを、ほぼ確信していたからである。
「オレも会ってみたい、…って言うより絶対に会わなければならないんだ、石狩という将軍に」
 比嘉は源の堅い決意のこもった言葉に驚き、遠慮がちに尋ねた。
「どうして、キミまでが?」
 そのとき、集団の世話役をしていた現地召集兵が、ガジュマルの巨木を見上げながら大声で「小休止!」を宣言した。集団はぞろぞろと散会し、思い思いの木陰や軒下に腰を降ろした。二人も額の汗をぬぐいながら、木陰の脇に無造作に置かれた朽ち木に腰を降ろした。
 口を開くのを促すような比嘉の力強い視線を、まるでかわすかのようにうつむいていた源は、しわくちゃの煙草を取り出して点火し一服すると、ようやく重たそうに口を開けた。
「実は、オレの父は…」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋