ゆきの谷
二人を収容した輸送船は、民間の貨物船をそのまま借り上げた徴用船だった。船内には負傷した陸海軍将兵が多数横たわっていた。重傷者は病院船にまわされるが、軽傷者がこの手の輸送船で運ばれることは特に珍しいことではなかった。
本船は、どうやらフィリピンやインドネシアから後送される兵員を運ぶための船らしかった。みな故郷に帰れると聞かされているらしく、喜びの笑顔を浮かべていた。向かう先は日本には変わりないが、ほとんどの者が期待していないであろう、本土とは数百キロ海を隔てた南の島「沖縄」であることを知る者は一人としていないようだった。
「…これも、知らぬが仏…か」
【沖縄の死闘】
●沖縄の日本軍
源と比嘉が落ち着き場所を探して広い船室の中をさまよっていると、五◯代と思われる老兵が突然、源に声をかけた。
「あんた、海軍の狙撃兵…か?」
源は、自分が海軍一等水兵の軍服をまとっていることを思い出し、笑顔で応えた。
「いや、自分は陸軍上等兵です。これはペリリューの戦場で軍服を失い、助けられた潜水艦内で支給されたもので…」
すると、剥がれかけた陸軍一等兵の階級章をつけたこの老兵は、「ペリリュー」の言葉に反応して一瞬微妙な表情をつくったが、態度を決めかねて苦慮しているようすで、源の顔と右手を交互に見つめながらしばらく呆然としていた。源が人差し指のタコに気づき、右手を持ち上げたのと同時に老兵は姿勢を正し敬礼した。
「失礼しました、上等兵殿。自分はてっきり…」
源は素早く答礼すると老兵の肩に手を置き、なだめるように言った。
「同じ兵卒じゃないですか。上等も一等もたいして変わらんですよ」
老兵はなおも硬直したままだった。源はその顔とイントネーションに、以前に逢ったことがあるような懐かしさを覚えた。そして一瞬考えたのち、ゲームを楽しむようなちゃめっけのある声で、やさしく語りかけた。
「あなたは越後訛ですね。出身は新潟、そしてスマトラからの引き上げ者。指のタコでオレを狙撃兵だと思ったのでは? おそらく近親者に狙撃の名手がおったのでしょう。ときに苗字は…、セキカワ。パラオに送られた自慢の息子がおるんじゃないですか?」
源は、目を丸くして驚愕に震える老兵を確認すると、満面の笑みを浮かべた。早速、結城艦長を真似て自身の観察力と勘を試してみたのだ。
「上等兵殿は、賢吾と一緒に戦われたのでありますか…?」
息子の安否を気づかい、親子ほど歳の離れた『年下の上司』に、敬語で恐る恐る尋ねるこの男を見つめ、源は胸が締めつけられた。関川がその後どうなったか源には知る由もなかったが、こう応えずにはいられなかった。
「自分は彼と二人一組の狙撃班を組んでともに闘いました。賢吾クンはよくやってくれましたよ。結局島は落とされましたが、彼は無事脱出したと思います。こうして今、自分がピンピンしているようにね…」
老兵は目を潤ませ、タコのある源の右手を両手で固く包み込んで喜んだ。顔はまったく似てないが、温かい自分の「父親」の心に触れたような気がして、源も双眼を潤ませた。
「そうでありますか、賢吾は生きているんですね…。む、息子がずいぶんとお世話になったようで、ありがとうございました。…申し遅れましたが、自分は第一六連隊第一大隊、関川誠一等兵です」
「関川さん、ペリリューでお世話になったのは自分の方であります。ご子息から、秋田のマタギだったお祖父様からの教訓を話していただき、大変教えられました。礼を言わなければならないのはこちらの方なんです…」
老兵は嗚咽を押し殺すと顔を上げ、絞り出すような声で言った。
「失礼ですが、御芳名を…」
「吉澤です。吉澤源といいます」
源が愛想よく即答すると、老兵は驚いたように素早く顔を上げ、源の顔を覗き込んだ。
「よ、吉澤…、狙撃手…」
「???…」
源が怪訝な表情で眉間を釣り上げると、老兵はそれと気づき慌てて口を開いた。
「自分は、上等兵殿の父上を知っております。そう、あれは朝鮮独立の騒動があった前の年だから…、大正七年だったと思います。野暮用で横浜を尋ねたときに、一度お会いしています。場所は…、そうそう、市内のどこかの病院でした」
「自分の父を? 横浜? 病院…」
今度は源が『横浜』という響きに反応した。兄の銀爾が生まれた頃、一家は横浜に住んでいたのだ。
「そう、小高い丘の上の立派な病院でした。貴族や金持ちがよくお産のときに利用するところと聞きました」
源は老兵の思いもよらぬ言葉に驚き、空を見上げて幼少の記憶をたどった。
「でも、その頃誕生した兄は、確か母が群馬県の実家に里帰りして産んだと聞かされていたが…。それがもし記憶違いだったとしても、当時の両親がお産のために立派な専門の病院にかかるほど金持ちだったとも思えんなあ…。それは勘違いでしょう、あるいは人違いでは…」
老兵は即座に頭を左右に振った。
「絶対に間違いありません。何しろマタギをしていた自分の義父が、陸軍屈指の狙撃の名人が来るというんで、長岡の練兵場まで一緒に見学に行ったことがあるんです。そこでお父上の神業をこの目で見、機会があって言葉も交わしたんです。横浜でお見かけしたのは、それからわずか三ヶ月後のことですよ。間違えるはずありません」
源は、母から耳にタコができるほど聞かされてきた「貧乏生活ぶり」を回想しながら、ぎこちない笑顔を形成した。
「関川さん、ときに石狩という将軍をご存じですか?」
「イシカリ? はて、そんな将軍おったかな? 存じませんなぁ」
「では、加藤弥太郎という将校は?」
「…聞いたことありませんなぁ」
年輩の古参兵なら知っているのではと淡い期待を抱いた源は少々落胆したが、源のために必死に記憶を探る老兵のいたいけな顔を見ているうちに、再び胸を熱くした源は、潮風にゆるみかけた手に力を込め、老人の嗄れた硬い手をにぎり返した。それに呼応するように、老人は大げさなほど目を見開き、まるで凍りついたように源の顔を見つめた。
横浜の病院の件は、源にとってはどう考えてもあり得ない話で、明らかに老人の勘違いであると思われた。それでも二人は、固く手をにぎり合ったまましばし感謝と感激の涙を交換し合った。
二人を乗せたおんぼろ輸送船が目指す沖縄が、今まさに風雲急を告げていたことなど、知るすべもなく。
当初、日本本土の一部である沖縄には陸軍第三二軍を中核とした、防衛のための大部隊と優秀な指揮官が集められた。まずは日本政府と軍首脳の「沖縄死守」の意気込みと覚悟を明示した陣容だったのである。軍司令官に牛島満中将が、陸軍士官学校長から転出して任命されたところからも、それは十分にうかがえた。同じ鹿児島出身でもあることから大山巌(日露戦争で大陸派遣軍の総司令官として勇名を馳せた元帥)の再来と評された大人物である。
牛島中将は第三二軍に留まらず、沖縄防衛のすべての部隊を事実上の指揮下に置いた。第九、第二四、第二八、第六二の四個師団と、第四四、第四五、第六四の三個独立混成旅団、ほかに第五砲兵団、海軍陸戦隊沖縄方面隊、現地召集防衛隊なども含め合計一一万人という、当時の日本軍としては申し分のない強力な戦闘集団だった。