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ゆきの谷

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 そんな小国が、なぜ隣接する大国に吸収されることなく独立国家として存続できたかというと、プロイセン、つまり今のドイツとフランスの仲が険悪になったことに起因する。いつ攻撃されるか分からないという疑心暗鬼に陥っていた両国にとっては、緩衝地帯はないよりあった方がいいし、それは狭いより広い方が都合がいい。だからルクセンブルグのみならず、オランダやベルギーなどの小国が今日まで独立を持続できた一因となっている。
 もし、日露戦争に日本が負けて、朝鮮半島だけでなく北海道もロシアに取られていたら、オレの義理の爺さんは今頃ロシア人になっていたはずだ。だが、江戸・東京で生まれ育ち、たまたま近所の金魚売りの男にそそのかされて『蝦夷開拓団』の一員となり北海道に渡っただけの爺さんが、仮にロシアに占領されたからといっていきなりロシア人に豹変するとは考えられんだろう? つまり民族と国家は常に別次元の尺度で識別されるべきであり、たまたま属している国と個々人の帰属意識が一致しなくても何の不思議もないということだ。
 我が国は、世界の趨勢からみれば国家と国民が比較的に一致している方で、欧米人の感覚からしたらこんな国は珍しい部類に入るだろう。スペインなんぞは、国民の半数以上が非スペイン人で構成されている。その最大勢力は、バルセロナを中心にイベリア半島東部の地中海沿岸地域に住むカタロニア人だ。彼らの一部は南フランスにも住んでいる…。
 だから、スペイン人にとっての都であるマドリッドとカタロニア人の都であるバルセロナは、東京と京城(現ソウル)ぐらい、否それ以上の温度差、異質感があるはずだ。
 そういう意味において欧米人の感覚で言ったら、東京人と大阪人は間違いなく異文化、異民族ということになる。だから彼らに取っては、東京人と大阪人が戦国時代さながらに無慈悲な殺し合いをしたとしても不思議ではないと言えるほど、民族学的には隔たりのある存在なのだと考えられる。
 何が言いたいかというと、『国家なんてその程度のもの』ということだ。日本は二千数百年前に出雲の国に神武天皇が天から舞い降りて『神の国』を作った…などと信じられているが、ヨーロッパには、たまたま大国の気まぐれでかろうじて生き残った程度の小国がゴロゴロある。自分一人が、『大日本帝国』を背負っているかの如く、あまり気負わん方がいいということだ。
 オレはオレ自身や部下の生命を守るためにやらなくてはならない最低限の戦争をやっている。オレに殺されたアメリカ人には申し訳ないと思うが、戦争というこの極限状態で、言葉や文化の通じるより身近な部下たちと、顔も名前も知らない外国人のどちらかを守り、どちらかを殺さなくてはならないという非情な選択肢を迫られたから、やむを得ずに前者を選んだ。それは割り切っているつもりだ。
 しかし先ほど述べたように、『国家』などという事態のない存在を護るためと称して、不必要に人殺しをしたくないという信念は変わらない。だからオレは、日本兵になりすまして『野蛮な敵』の潜水艦に乗り込むという快挙、いや暴挙をやってのけたキミの勇気に、敬意を表することはあっても決して軽蔑するつもりはない。
 …苗字から察するに、キミの先祖は沖縄の出だろう? 沖縄守備隊が吉澤上等兵を欲しがっているというのは実はオレの創作話だ。我々が選択できるわずかな『キミたちの送り先』としては、あそこが一番いいように思えたので、上に『沖縄防衛部隊に参加したがっているペリリュー戦の残兵がいる』と連絡した」
 すべて見抜いていた上で、沖縄移送という最小公倍数的措置を講じてくれた結城艦長のやさしさに、比嘉は無言の涙で応えた。源もこのとてつもなく大きい艦長の心に打ちのめされ、力なく膝を折り、ひんやりとした甲板に両手を落とした。
 そして二人を包む海鳥たちの声も生温かい潮風も、自然界の摂理によって存在し、国家の色分けなどと無縁であることを改めて悟り、ただひたすら灰色の甲板を見つめていた。艦長の言葉を何度も反すうしながら。
「おい副官、見たか。オレの浪花節も捨てたものじゃないだろう。敏腕の米海軍情報部員だけじゃなく、帝国陸軍屈指の狙撃兵まで、撃沈してしまったぞ。ワッハハ…」
 結城艦長は楽しそうに大笑いし、おどけて見せた。副官もやさしく微笑んでいた。
 力なく歩き出した二人は、改めて艦長と副官に感謝の意を表し、横付けされた輸送船のタグボートに乗り移った。揺れるボート上で、二人は涙で真っ赤に腫れ上がった双眼を見開いたまま、最敬礼の姿勢を維持し続けた。潜水艦上の二人もそれに応え、敬礼の姿勢を堅持した。
 海軍中尉・結城友三艦長の戦争論、というより人生論は、これまで源が影響を受けた山元や比嘉とはひと味違った、海軍軍人らしい独自性に彩られていた。後者の二人が国策の遂行手段としての戦争を認知した上で、国民性や国力の比較、ドクトリンの差異を分析し持論を構築していたのに対し、結城艦長は国家という次元を超越した人間としての生き方に立脚した戦争論を醸成していた。
 本当に凄いのは、ただ考えていただけでなく、部下を啓蒙し実践していた点である。源は、見かけによらぬ結城の賢さに改めて感服した。
 しかし彼が、比嘉の素性を知りつつ知らぬふりをして輸送船に引き渡すという形で、自身の信念を具現できた基礎には、潜水艦という小規模な孤立した戦闘集団を形成していたことがその素地となっており、やはり大所帯の陸軍とは違った、海軍ならではの戦争スタイルによるところが大きいことも、同時に理解した。山元がビルマで語っていたとおり、海軍軍人の知的水準の高さも合わせて…。
 突然敬礼の姿勢を解いて踵を返した結城艦長は、タッグボート上の二人よりあえて先に背を向けた。彼は最後の最後に上官として、あるいは帝国海軍軍人としてのプライドを見せつけたかったに違いないと源は推測し、なおも堅い姿勢を維持した。
「バレてたね! 帝国海軍士官、恐るべし!」
 源がおどけた声で発した言葉は、すぐ横でなおも涙に濡れる比嘉には届かなかった。
 額に汗してタッグボートを漕ぐ二人は、朝鮮人軍属のようだった。源と比嘉の二人にはまったく関心を示すことなく、ただひたすら母船への最短距離に集中しオールを操った。そのようすを見ながら源は思った。「ヴァンベルク中尉はどうなったのだろう。あのとき、このオールがあったら自分たちはどうなっていたのだろうか」と。わずか二メートル足らずの木の棒が、三人の運命を激変させたかも知れなかったのだから…。
「Ignoranceisbliss…」
 オールを見つめて思案していた源に、風の合間をくぐり抜けるような比嘉のささやかな発声が聞こえた。
「なっ、何?」
 数秒の間をおいて源の問いに気づいた比嘉が、戸惑いながら小声でつぶやいた。
「あ、ああ。今さっきまでのボクたちのことさ。日本語にすると『無知は幸せ』、つまり『知らぬが仏』という意味だ…」
 源にはよく聞き取れなかったが、感傷に浸る比嘉を問いつめるつもりもなく、ようやく硬直していた上体を折り曲げてボートの底に腰を降ろした。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋