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ゆきの谷

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 源はしばらく反すうするように不得要領のうなづきを繰り返していたが、艦長は改まった面持ちで歩み寄った。
「元気でな、吉澤…」
 源が踵を鳴らして姿勢を硬めゆっくり敬礼すると、比嘉も一歩遅れてそれにならった。この頃になると比嘉の帝国陸軍式敬礼もかなり板についてきた。海軍式敬礼で応える艦長と副官の視線が比嘉に移ったとき、源は考えた。
「知らぬが仏…」
 もし、面倒をみてきたこの答礼の相手が米海軍下士官だと知ったら、二人はいったいどんな反応を示すのだろう。源は、この《作戦》がうまくいったことの嬉しさと、たった今バレた場合に繰り広げられるであろう修羅場を想像し、複雑な微笑みを浮かべた。すると源から視線を移し、しばらく比嘉の双眼を見つめていた艦長が、突然陸軍の兵服をまとったこの男に歩み寄り小声でささやいた。
「この戦争が終わって平和が訪れたら、ぜひキミに英語や仏語を教えてもらいたいものだ、比嘉米海軍上等兵曹」
「! ………」
 ──比嘉と源は凍りついた。
 真冬だというのに生温かい潮風が狭い潜水艦の艦橋をすり抜け、はるか遠くで鳴く海鳥たちの声が妙に大きく響いていた。そして源と比嘉と艦長の微妙な空間に、永遠とも思える数秒間が過ぎた。
「自分も習ってみたいです。そのときは艦長と一緒によろしくお願いします」
 背後から副官が笑顔でそう言うと、艦長が後ずさりしながら笑顔で続けた。
「我々は、キミたち米国人が考えているほど民度の低い野蛮人じゃないよ。キミらを発見したときは戦闘直後で気が立っていた。いきなり銃撃して申し訳ないことをしたが、丸腰の捕虜を丁重に扱うぐらいの余裕と度量はもち合わせているつもりだ」
 比嘉は天変地異の衝撃を受け、引きつった笑みを浮かべたまま敬礼の右手をゆっくりと降ろした。
源は艦長のやわらかい笑顔に一応は安心したが、わき立つ動揺を抑えることができず、ぎこちない沈黙を維持していた。
「…なぜ、いつ頃、ボクが米兵と?」
 かんねんした比嘉の弱々しい質問に、艦長は大声で笑った。
「ハハハ、キミらが乗艦してすぐだよ。なぜわかったかと聞かれると…、そうだ、臭いだな。キミはアメリカの臭いがした。はじめは吉澤上等兵も米兵かと思ったよ。しかし、キミからは日本の、糠味噌の臭いがした。ハハハ」
 二人は顔を見合わせ、困惑した表情を交換したが、緊張感を維持したまますぐに向き直った。そして比嘉が恐る恐る小声で尋ねた。
「…我々をどうするつもりですか、艦長?」
 笑顔のままの艦長を尻目に、副官が前へ歩み寄り応えた。
「本艦にまともな英語を話せる者はいません。したがってあなたを尋問することは不可能です。もっともあなたは戦闘のショックで『話せない』のですから、何も訊くことはできませんけどね。
 今の、あなたからのこの質問も、私の空耳でしょう…。だから捕虜としての扱いを放棄したんです。そのまま陸軍上等兵になりすましていてもらった方が、むしろこちらにとっても都合がよかったのです。そして面倒が起きる前に本艦を去ってもらう方がありがたいと…」
 副官の説明を艦長が引き取った。
「普通に、よーく考えてみろ、吉澤。
 米駆逐艦を撃沈した→その直後、米海軍のカッターが漂流していた→軍服を着た、どこから見ても立派な日本陸軍上等兵の『喋れない』男と、怪し気な裸のよく喋る男を救出した→喋らない上等兵は箸が不器用で、よく喋る男は手慣れていた→輸送船団との戦闘のあと、喋らない男は、まるでそれをよく理解しているかのように、計器やコンパスを順次目で追っていた、動揺を必死に隠しながら。
 かたやよく喋る男はオレばかり見ていた→それから、喋らない男は通信兵が打つモールス信号に機敏に反応していた…」
 二人は、背中に冷や汗の筋が幾重にも垂れるのを感じながら、艦長の言葉の一つ一つに息を飲んだ。
「以上の結論として、とりあえず『喋らない陸軍上等兵』が実は海軍軍人であることは容易に推測できた、敵か味方かはともかくとしてな。そうなると、軍服は吉澤上等兵のものだということになる。キミは狙撃手として有名な『陸軍上等兵』だったしな。
 先ほどは『臭い』などと失礼なことを言ったが、実を言うと『喋らない上等兵』が米海軍の下士官、しかも情報部員であることがわかるのにもそう時間はかからなかったよ。
 実は輸送船団との戦闘の直後に、オレはわざと大声で笑いキミを起こした。そして打ち合わせどおり、通信兵に様々な暗号電文を打電、否、空打ちさせた。アメリカ人のリアクションってやつは実にわかりやすい。『これは多分海軍暗号、これは意味不明。今のはおそらく…外務省暗号』などと反応してくれたので、それを確認した副官からようすを聞いて、これは情報のプロ、しかも暗号タイプの識別ができるらしい点から一般の水兵ではなく士官か下士官だということが推測され、だいたいの素性がつかめた。歳の頃からして下士官だろうとは思ったが、最後までわからなかったのが、米海軍下士官の中でも上等兵曹か一等兵曹か、はたまた二等兵曹かだった。この副官は一等兵曹と推理したが、オレは上等兵曹と踏んだ。長年の勘でな…」
 艦長は微笑みを維持したままそこまで話すと、ゆっくり真顔に戻り、視線を比嘉から源に移した。遠くで鳴く海鳥の声が、潮風に乗りかすかに聞こえていた。
「…敵対するはずの捕虜とその世話係が情を交わすことは、古今東西を問わずそう珍しいことではない。むしろ恩義をつくして必死に比嘉上等兵曹を気遣う吉澤上等兵に、サムライの美学すら感じたぐらいだ」
 (世の中には凄い人がいるものだ)と、源は緊張感を緩めながら感銘を受けた。比嘉も感服しているようだった。
「…嘘を言って、すみませんでした」
 源が頭を下げると結城艦長は頬を引き締めて源を見つめ、鋭く口を開いた。
「オレがキミでも、多分同じことをしたと思う。戦争なんて一部の権力者による政争の具でしかない。オレは軍人、まして将校だから、命令とあらば職務を全うするために命を投げ出すぐらいの覚悟はもとよりできている。しかし、無差別に召集された末端の兵が『無駄』に命を落とす必要はない」
 そう言うと艦長は、再び視線を比嘉に移し、芝居がかったわざとらしい大声で言った。
「敵にでも何にでもなりすまして、それで死なずに済むのならそれでいいではないか。人間として、いや、動物として生まれてきた以上、天寿を全うするのが自然界が定めた摂理であり責務でもある。
 本来、人の生死は国家の勝ち負けなど足元にも及ばぬほど、重きものでなくてはならない。『国家』の中身は主に国民であり、人なのだから…。国のために人があるのではなく、人のために国はあるべきなんだ。
 オマエらは、『国家』なるものがどのようなものか知っているか? オレは若い頃に武官の随員として『ルクセンブルグ』というヨーロッパの小さな国を訪れたことがある。人口わずか二◯万人程度の、それはそれは小さな公国だった。住民のほとんどはドイツ系かオランダ系、面積は相模の国(神奈川県)と同程度だ。しかし、どんなに小さくても独立国であり、その意味においては日本やアメリカ、ロシアと同列・同格だ。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋