ゆきの谷
「違うね! 自決なんてしない。敵と合流して味方と闘うことになっても生き延びる道を選ぶよ。もしオレがキミの言うとおりの『アメリカ的アメリカ人』だったらね」
比嘉は源の意外な返答に当惑した。立ち場が逆だった米駆逐艦内での自説を揶揄されていると思ったが、まっすぐに比嘉を見つめる源の双眼は真剣だった。
「少なくとも九州や本州に送られるよりマシじゃないか、沖縄の方が。キミは堂々とウチナンチューをやりとおせばいい。事実、キミの血管には琉球の血が流れているんだから…。
ときに、いつの時代だったかは忘れたが、英国を舞台にしたこんな昔話、知ってるか?
…あるとき議会で、何とかという首相が世論に後押しされて『ユダヤ人撲滅運動』を公約した。そして実際に、辛らつ、かつ徹底したユダヤ排斥活動を展開し結果的に公約どおり国内からユダヤ人を消し去った。その首相は声高に勝利宣言し、後押しした世論の中心的存在だった教会有力者からも絶賛された。ところがほどなく、この教会有力者のほとんどが隠れユダヤ人だったことが判明した…」
比嘉は苦笑しながらゆっくりと首を横に振っていたが、構わず源は続けた。
「キミの父上がどんなサムライだったかは知らないが、キミの心はアメリカ人のはずだ。ここまで来たら『教会有力者』になるべきだと思うよ」
少し考えたのち、比嘉がかぶりを上げた。
「同じような話をパリで、イシカリという日本人から聞いたことがあるよ。ドイツでの話だ。『宗教や文化を異にする非ドイツ人が国内に目立ちはじめ、彼らへの迫害や暴力が社会問題になった時代、その反動でドイツ至上主義が台頭した。その先頭に立ち、ドイツ・アーリア人種の純粋性を説いた最もドイツ人らしい民俗学者の多くが、実は非ドイツ人だった…』と。
そうそう、食事中に艦長がキミの父上の話をしたときに登場した、会議の少し前までパリの武官だったという少将、あれはイシカリさんのことだとピンときたんだ」
源はあのときの比嘉の反応の理由をようやく理解し、うなづきながら反復した。
「石狩?」
「ああ、ボクが情報部のパリ支局に出張していたとき、あるパーティで見かけた日本陸軍の駐留武官だ。軍人とは思えないほど優雅で知的で社交的な紳士だった。英語やフランス語、ドイツ語も自在にこなしていたよ。とても印象的な日本人だった。当時の歴代パリ駐留陸軍武官で、何カ国語も話せるインテリなんてそう何人もいなかったはずだ。間違いなくイシカリさんだよ」
源は宙空を見つめたまま黙思した。
「石狩…、聞いたことないなぁ。…苗字から想像するに、北海道出身の人なんだろうか?」
しばらく源のようすを注視していた比嘉は、一旦うつむき、静かに微笑みながら顔を上げた。そしてメガネをずり上げると源を見つめ、キッパリした口調で言った。
「入隊前は毎週教会に行っていたよ、日曜日のミサにね。…キミの言うとおり『有力者』になってみようと思う」
その言葉に、源も微笑みを返した。二人がともに笑顔を残しながらベッドに身を沈めると、例のエンジン音と油臭が再びあたりを支配した。しかし源の脳裏には、蒼々とした水上の風景と謎の人物のぼんやりとしたシルエットが、すでに戻ってきていた。
「…石狩、…元武官」
この将軍が父の死に関係している可能性があるのか? ヨーロッパ列強国の駐在武官ともなれば、陸軍軍人の中でもエリート中のエリートであるというのが当時の定説である。狙撃兵だったとはいえ単なる一兵卒だった父がそんな人物と関わりがあったなど、少なくともこのときの源には到底理解できなかった。
この当時、大本営も今後の米軍進出方面を、比嘉の供述通りフィリピン扌台湾方面と想定していた。そのため、一旦沖縄に配置した大軍の中から、有力部隊を徐々に引き抜き、おもに台湾に移しつつあった。米軍側に沖縄侵攻をカムフラージュするための欺装工作があったとする説があるが、定かではない。米軍の中にも、比嘉のように「元々中華民族が住む台湾の解放を優先すべき」という意見と、日本本土の一部である沖縄を攻略し、心理的効果を狙うべきという意見の対立があったという。
そんな事情は知るすべもなく、二人の心中は「米軍は台湾へ向かい沖縄へは来ないであろう」という期待と楽観に支配された。それは、平和的で「のどかな南国・沖縄」への一方的な先入観と、自身の生還を切望する無意識の心理が導き出した都合のいい、しかし当時としてはいたって常識的な結論だったのである。
沖縄扌日本扌群馬扌水上…。源の極端にポジティブな想像力は留まることを知らず、美しい故郷の情景と背を向けて不気味にたたずむイシカリの幻影を、交互に追いかけていた。
●知らぬが仏
数日後、潜水艦呂五五号は、危惧された敵との遭遇戦もなく、太平洋上の一座標「X海域」に無事到着した。ブリッジに出て周囲をうかがうと、はるか遠くに落合う予定の輸送船とおぼしき艦影が、かすかに見えた。源と比嘉の二人は、すっかり世話になった乗組員に礼と別れの挨拶を済ませ、結城艦長の前に立った。
「やあ、何よりだ」
「………」
開口一番、そう言って大きな溜め息をついた艦長を、二人は一斉に凝視した。「やっと、やっかいなお荷物とおさらばできるから?」そんなふうに取れなくもない溜め息だった。
「あ、すまんすまん。キミたちをここまで無事に送り届けるという任務が全うできて、ついほっとしてしまったもんでな。
実は…、今だから話すが、我々が抜けてきた海域は敵さんの裏庭のようなところで、有力な敵艦船と遭遇しなかったのが奇蹟だったと言える。米フィリピン攻略部隊を支援する艦艇が、あの辺に何百隻とおったらしい。事前に無線で聞いていたが、変に動揺するといかんから通信兵とワシだけの秘密にして、キミらはもとより部下にも伝えなかったのだ」
艦長の話を聞き、源と比嘉だけでなく後ろに貯立していた副官たちも驚いていた。
なるほど、「知らぬが仏」ということか。もし知らされていたら、少なくともこの一週間の睡眠時間が半減していたことは間違いなかっただろうと源は背筋を震わせた。
「艦長の温情に、…感謝します」
ペコリと頭を下げた源を、艦長は笑顔のまましばらく黙って見つめていたが、いきなり口を開いた。
「干支だよ。吉澤」
「…はぁ?」
「オマエが知りたがっていた『面舵』と『取舵』だ」
驚いて双眼を見開いたまま固まっている源をよそに、艦長は続けた。
「中世の我が国で使われていた時計を知っているか? ピンとこなかったら羅針盤に干支を割り振ってみろ、否、時計の方が分かりやすいか。真上、つまり一二時に子(ねずみ)を書くと左右、つまり三時と九時には何が来る?」
なおも目を白黒させている源の返答など一顧だにせず艦長は続けた。
「三時が卯(うさぎ)、九時は酉(とり)だな。『卯舵(ウカジ)』は言い辛いし聞き辛いので、時代が下ると『卯(う)』が『面(オモ)』に変化した。つまり『面舵(オモカジ)』だ。なぜこんな号令が使われているかは諸説あるが、自分が知る限りでは波しぶきや強風で騒々しい甲板上でも聞き違いしないため…ということだ」