ゆきの谷
三○○メートルほど先に、赤々と燃える敵輸送艦が見えた。それは源にとって、衝撃的な光景だった。恐らく補給用の弾薬を積んでいたのだろう。小さな爆発をくり返しながら、輸送艦は見る見る傾きを増していった。そして、その燃える甲板から絶叫を上げながら、次から次へと火だるまになった乗組員が海に飛び込んでいた。漏れ出た油が海面を埋めつくし、周囲は文字どおり火の海だった。
艦長をはじめ、みな神妙な表情で見つめていたが、比嘉だけは顔はこわばらせ全身を震わせていた。
みなわかっていた。こんな小さな潜水艦に、負傷した捕虜の収容などできないことを。だから、悲しげに見つめるしかなかったのだ。もちろん米海軍軍人の比嘉も…。
だが、そこにいた日本人にとっては単なる「気の毒な敵兵」であるが、比嘉にとっては同胞である。必死に涙をこらえ無念の思いで見つめる比嘉は、日本陸軍上等兵の襟章が着いた軍服の脇腹付近でにぎるこぶしに力をこめた。
今にも脱ぎ捨てたい衝動にかられてさらに握力を加えたが、すぐ横に佇立する源を一瞥すると、震えるほど堅くにぎっていたこぶしをやわらげ、あふれる涙をそのままに黙祷した。
「艦長、助けないのですか?」
突然の源の声に素早く反応し、比嘉は大きな目を見開いた。無言のまま沈み行く輸送艦を見つめていた艦長は、数秒間の沈黙のあとに重たい口を開いた。
「諸君らが本艦を降りるというなら、二、三人は収容できるがな」
予想したとおりの返答だった。そして無気味なほど抑揚のない冷徹な口調に、海の戦争の真の恐ろしさを改めて悟った。「負傷」や「捕虜」などという中途半端な結末などは存在せず、負けは即「死」を意味するということを…。
赤々と燃える海面はしだいにその勢いを弱め、異臭だけを残してやがて消えた。副官らは次々とはしごを降りて行ったが、艦長と源と比嘉の三人は動かなかった。依然として前方を見据えていた艦長が、突然二人の方を向いた。
「見てのとおりだ、これがオレの戦争だ。…そろそろハッチを閉めるぞ」
険しい表情のまま吐き捨てるように言うと、はしごに手をかけブリッジをあとにした。艦長の背を追うように、割りあてられた居住区域に戻った源と比嘉は、副官の指示に従い再び床についた。胸に落ちないわだかまりを抱えたまま…。
「潜水艦の戦争」なる海軍の戦いぶりをはじめて体験した源が、戦闘の一部始終を回想していると、下から比嘉の小さな声が聞こえた。
「吉澤上等兵、まだ起きてますか?」
「…ああ、起きているよ、何か? 貴官はしゃべれない上等兵なんだから手短に…」
耳をそばだてて待っている源に、いつまでたっても比嘉の声が聞こえて来なかった。しだいに苛立ってきて口を開こうとしたとき、消え去りそうな比嘉の哀しげな声がした。
「ボクを殺してくれないか…」
その言葉に反応し、源は折り曲げた上半身をベッドの外に投げ出して、比嘉の顔をのぞき込んだ。彼の頬は涙で濡れていた。
「…こんな状態、耐えられないよ。キミがいくらボクをかばってくれてもいつかバレる。アメリカ兵とわかれば必ず殺される。だったら、ついさっき死んで行った輸送艦の乗組員がまだ近くにいるうちに死にたいんだ。お願いだ、ボクを殺してくれ…」
押し殺した絞り出すような声で懇願する比嘉の弱々しい姿に、むしろ真のサムライの姿を見たような気がした。それは彼が哀しいまでに継承する父親のDNAの幻影だったのかも知れない。
源は諭すような目で比嘉を見つめ、ゆっくりと首を振った。比嘉は落胆したように目を閉じ、小刻みに震えながら薄汚れた毛布を頭の上まで引き上げた。
源は上体を戻し、しばらく沈思したが、けだるそうに口を開いた。
「比嘉さん、日本人が『死にたがる』理由は、武士道精神や責任感、羞恥心なんかじゃないように思います。ただ単に淋しいから、弱いから、怖いから、人に殺されたくないから…、だから自ら死を選ぶような…、そんな気がしてきました」
弱々しい源の告白が聞こえたのか聞こえなかったのか…、比嘉からの応答はなかった。
●艦長の決断
数時間後、源が眠れぬまま身を横たえていると、突然艦長が現れた。
「戦闘海域を出たので、無電でキミたちのことを上に報告してみた。そしたらつい今しがた返事が来て、なんと沖縄へ運べというんだ。わが呂五五号は、これよりキミたちを沖縄へ運ぶ輸送船と連絡するため、北西のルソン島沖X海域をめざす」
「………」
源は胸が熱くなるのを抑えきれなかった。あきらめかけていた日本が、ようやく近づいた気がしたからだ。
「…お、おきなわ…」
あふれそうな涙を必死にこらえている源には委細かまわず、艦長は続けた。
「沖縄第三二軍配下の、独立混成第四四旅団の、…なんとかという隊長がキミを欲しがっているらしい。本艦のような小型の呂号潜水艦は、伊号のように遠距離洋上航海用として造られてはおらん。元々ミンダナオ沿岸が活動海域なんだ。だから途中で輸送船に引き渡すことになった」
艦長はそう言うと、無愛想に背を向けて立ち去った。
たかが一人の陸軍上等兵のために、帝国海軍の潜水艦が渡し船と化すのである。おもしろいはずはなかった。源は再び上半身をねじ曲げて比嘉に声をかけた。
「おい、起きてるか? オレたちは沖縄へ行けるんだ。おまえの第二の故郷、沖縄だぞ」
会話を聞いていたらしく、比嘉はすぐに応えた。
「ああ、沖縄なら安全だ。米軍は台湾に向かい、沖縄には来ないからな」
比嘉は頭までかぶった毛布を取ろうとせず、投げやりな口調でそう言うと、ベッドの奥に寝返ってしまった。比嘉の態度を不審に思いつつ上体を戻した源は、なぜかこのとき、沖縄で自身の運命を左右する重大事が待ち受けてるような胸騒ぎを感じた。しかしそれが何なのか、源はあえて詮索することを放棄し毛布をずり上げた。
兵士の宿命として、その答えはあまりにも明白だったからである。日本を離れて以来のこれまでを素早く回想し、心の中の黒い塊を力いっぱい踏みつぶしたとき、すでに慣れっこになったエンジンの振動と油臭さに気づき、源は現実の日常に回帰した。
「…死ぬときは死ぬんだ」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、力いっぱい目を閉じ毛布をにぎる両手に力を込めた。眠れるはずもなく時間をもてあましていると、下からモゾモゾと比嘉の動く気配を感じた。やがて彼の息づかいが間近にせまったが、源は動こうとしなかった。そして息苦しい数秒の緊迫感をかき消したのは、比嘉の意外な一言だった。
「…キミの推測通り、ボクの父は最期まで日本人だったよ」
源は眉間に力をこめて毛布を跳ねのけ、のぞき込むように顔を寄せる比嘉を見やった。
「このまま沖縄に運ばれたらキミはボクをどうするつもりだ? 沖縄を防衛する日本軍に合流して一緒にアメリカ軍と闘えとでもいうのか? このボクに…」
源はしばらく考えた。自分が比嘉の立ち場ならどうするかを…。
「キミが今何を考えているかはわかっているよ。『自分ならどうするか』だ。そして、必ずこういう結論になる。『オレだったら、まず捕らえられるようなヘマはしない。万一捕らわれたらその場で自決する』…違うかい?」
源は煥発を入れずに即答した。