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ゆきの谷

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 梓織姉ちゃんの夢ではなく、むさ苦しい大男に起こされ、源は不機嫌なままベッドを降りた。下階の比嘉はまだ眠ったままだった。小走りに去った大男と逆の方向にゆっくり歩を進めると、司令室らしいやや広い空間の真中で、潜望鏡にかがみ込む結城艦長が見えた。艦長は源の気配に気づき副官らと同時に振り返った。
「おお、目覚めたか狙撃兵。これから一戦はじまるぞ!」
 さっきの大男と同じセリフだ。「これが潜水艦乗りの戦闘開始の合い言葉なのか…」などと考えながら、源は眠気の残るぼんやりした顔で突っ立っていた。艦長は懐中時計を素早く確認し、再び潜望鏡にかじりついた。
「八時間も寝とったぞ、よっぽど疲れていたらしいなあ。つい先ほど敵の輸送船を発見した、一○数隻の大船団だ。本艦はこれより攻撃を開始する」
 引き締まった小声でそう言うと、艦長は傍らの副官に細かい指示を発し続けた。ふっと気づくと、これまで源が経験したことのない特異な緊張感が館内を支配していた。
 陸戦は指揮官の命令のもと部隊単位で行動するが、結局最後は個人の戦いである。負傷、戦死、生還は、それぞれ個別の状況下に生じる宿命にある。むろん、一発の砲弾で同時に数人が命運をともにすることはあるが、生死を分かつぎりぎり最後の「一瞬の行動」は、基本的に個人の判断に依存する。
 壕の中で砲弾の飛来音が接近したとき、その場に伏せるのか、あるいは物陰に身を潜めるか、または壕を飛び出すか…。これらの本能的な瞬時の行動が、明暗を分けるものである。
 ところが海の戦いは、そうはいかない。一隻の艦船が運命共同体となっているのだ。特に潜水艦は、その傾向が顕著である。もし本艦が潜行状態で爆雷に被弾すれば、乗組員全員が同時に戦死するであろうことは想像に難くない。それだけ艦長の責任は重大で、瞬時の判断力が厳しく問われることになる。また、乗組員もそのことを十分に理解しているからこそ、この重苦しい緊張感が艦全体に派生していくのであろう。源はそんなことを考えながら、海の男たちの張りつめた後ろ姿を見つめていた。
「一番、二番、発射!」
 艦長の号令に応ずるように、素早く順々に何人かが復唱した。
「三番、四番、発射!」
 魚雷攻撃が始まったようである。副官ら数人が、源の左側に座っているレシーバーを着けた下士官の方を注視した。艦長は潜望鏡にかぶりついたまま動かない。緊迫した一◯数秒間ののち、小さなドンドーンという鈍い振動と同時にレシーバーの男が叫んだ。
「一番、二番、命中!」
 頭上で両手を合わせ、魚雷が命中することをひたすら祈っていた副官が、顔を上げて微笑み押し殺した静かな歓声を上げた。寝起きのせいもあったが、源は無表情でその光景をながめていた。
「こんな戦争もあったのか…」
 肉眼ではっきり見える敵兵と撃ち合い、お互いに血しぶきを上げて絶叫し、殺しあうのが源のこれまでの戦争だった。双方が船という機械の中に収まって、ボタンを一つ押しただけで喜んだり悲しんだり死んだりする、目の前で繰り広げられている戦争は源にとって直感的には理解できない、実に不可解かつ不思議なものだった。

 米国製の戦争映画とは違い、当時の魚雷(魚形水雷の略称)は「当たらない」というのが定説だった。数千メートル先の米粒ほどにしか見えない目標を狙い、彼我の艦速と魚雷の巡航速度、潮の流速を瞬時に計算し発射のタイミングを測る、高度な数学的感覚と豊富な経験を必要としたからだ。
 攻撃される側の水上艦艇は、魚雷が曳く航跡をなるべく早く発見し、巧みな操舵によって被弾回避に努める。海軍にとって、艦砲射撃とともに海の戦いの有力な攻撃手段である魚雷の命中精度を上げるため、列強各国の海軍当局と技術者は性能向上のための技術開発に没頭した。
 やがて航跡をほとんど残さない、マグネシウムカーボン電池を使用する電気モーター式推進機や、日本海軍も開発使用した酸素式推進機を搭載した魚雷が次々と開発され、遂には同盟国のドイツ海軍によって、革命的な「ホーミング魚雷」が誕生する。
 これは、弾頭にステレオ集音機を装備し、敵艦のエンジン音を常にステレオの中心で認識するよう自ら方向を変えて目標を追尾する。むろん既に効果が実証されていた、航跡をほとんど残さないヴァルター機関(酸素式)推進機と組み合わせた、命中精度を極限まで高めた画期的な兵器だった。
 そんな高性能な魚雷が後に開発されることなど、源は元より居合わせた潜水艦乗務員さえ知るはずもなく、今は圧搾空気によって発射された帝国海軍九一式魚雷の成果に満足していた。
「高橋、敵駆逐艦は?」
 艦長が小声でささやき、再びどんよりとした緊張感が艦内を包んだ。
「………」
 みなかたずを飲んで、高橋というレシーバーの男に注目していた。
「…高速スクリュー音はありません、敵駆逐艦はいないもようであります」
 途端に艦内の空気が和んだ。艦長もホッとしたように額の汗を拭い大声で号令した。
「よし、浮上!」
 各自が慌ただしく動きまわり、艦全体がわずかに艦尾よりに傾斜した。潜水艦は、海面を目指してゆっくりと動き出したようだった。艦長が振り向き、再び源を発見すると微笑んだ。そして「オレの仕事を見たか!」と言わんばかりに、左手で右腕をポンと叩いた。艦長に続き親しげに自分の肩に手を置いて過ぎ去ろうとした副官に尋ねた。
「あの…、なぜみんな音を立てず小声で話していたのですか?」
 副官は振り向きざまに少し微笑み、ちゃめっけタップリに言った。
「キミのお友達を起こさないためさ」
 源がキョトンとしていると、周囲にいた乗組員たちが一斉に笑った。
「…敵さんのソナーに探知されないためだよ」
 例のレシーバーの高橋二等兵曹が、なおも笑いを残しながら教えてくれた。
「そ、そなあ?」
「ああ、水中の音を探る集音器だよ」
 やっと理解した風情でうなづいた源は、(この男のイントネーションは、明らかに東北弁のそれだ)などと、素早く詮索をした。源は以前から、言語や方言に対するアンテナが異様に発達していたのだ。米国製のソナー並に。
 警戒態勢は解除されたらしく、みな副官の冗談をおもしろがり大声で笑った。艦長も神経質そうな目を細めて笑っていた。すると、その声に目覚めた比嘉が起きてきた。
「おっと、艦長が大声で笑うから結局、起こしちゃったじゃないですか」
 戻ってきた副官が素頓狂な声で言うと、再び艦内は爆笑の渦に包まれた。先ほどの息苦しいほどの緊張感とあまりに乖離した雰囲気に源が怯んでいると、ゆったりとした大きな揺れが艦を襲った。どうやら海面に浮上したらしい。艦内に静寂が戻り、艦長以下三人がはしごを登ってハッチを開けた。ぼんやりと佇立したままの比嘉は、暗号表にかぶりつき必死に打電している通信兵を見つめていた。
 艦長は自身の戦果を自慢したかったのだろう。にんまりと笑みを浮かべ、下から見上げていた源に手招きをした。横にいた比嘉と顔を見合わせ、鉄の細いはしごを登ってブリッジに出た。比嘉もあとに続いて出てきた。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋