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ゆきの谷

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 比嘉を見据えたまま艦長があごに手をあてたとき、後方から二人の兵が温食の皿を抱えて現れた。艦長は並べられた食事を二人の前に差し出し「食べながら聞いてくれ」と勧め改まって口を開いた。
「さっきは済まなかったが、悪く思わんでくれ。カッターで漂流する敵はしばしば機関銃などを隠し持っていることがあるから、一旦カッターを沈めてそれから救助することにしている。決してキミたちを殺傷しようとしたわけではないんだ」
 源は納得できない風情で小首をかしげたが、艦長は構わず続けた。
「…我々は、パラオからフィリピンをうかがう敵部隊を攻撃する命令を受け、ミンダナオ島方面に向かっているところだ。あいにく無線封鎖の最中なので、この海域の味方船舶に連絡することはできん。よって、残念ながらキミたちを上陸させることは、しばらくできそうにないのだ」
 源は眉をひそめ、すかさず質問した。
「本艦の作戦終了後は、ミンダナオ島に上陸できるのですか?」
 艦長は首を左右に振りながら即答した。
「それもわからん、それは上(上層部)の判断だ。とにかく無線封鎖が解除され次第、キミたち二人を収容した旨を上に報告し、指示を仰ぐつもりだ。優秀な兵隊はみな死んでしまったから、今となってはキミのような狙撃手は貴重な存在なんだろう? 陸さん(陸軍)もすぐに欲しがるはずだ。でも、まあ取りあえず今は腹ごしらえをしてゆっくり休んでくれ…。他に何か質問は?」
 源は天井を見やり、かねてからの素朴な疑問を想起したが、「このタイミングで訊くべきことではない」即断し視線を戻したが、そのようすを注視していた艦長が「遠慮なく」と顎をしゃくった。
「…あの〜、海軍さんは何で『右・左』と言わず、『面舵・取舵』と言うんですか?」
 副長に肩を叩かれた艦長は、源の質問をろくに聞かずやわらかい笑みを残してゆっくり腰を上げ、踵を返した。源は一瞬、憮然としたがすぐに取りなし微笑んだ。そして自分が海軍にも知れ渡っていたことに少々気恥ずかしさを覚えつつ、自慢げに比嘉の方をちらっと見た。
 結城中尉は、やや神経質な感じはするがまじめそうな人物だった。敵味方の確認もせずにいきなり銃撃させた事情も、考えてみればむしろ小心さの証であるとも思えた。
 広い太平洋とはいえ、右も左も目につく船はみな敵艦だ。その辺の事情は源も経験済みだったので、「無理もない」と中尉の判断を渋々理解した。いずれにせよ、荒々しく大ざっぱな陸軍士官とは大違いである。そんな感想を抱きつつ咀嚼のリズムを刻んでいると、結城中尉の背が突然反転した。
「キミはどこの出身なんだ? まさか信州じゃないよな」
 いきなりの問いかけに驚き、源は顎の動きを止めて中尉の顔を見上げた。
「実は以前、大本営の連絡会議の場である陸軍少将が行方不明になったという元部下の消息を心配し、よっぽど困り果てて憲兵に捜索を依頼したという話を聞いたことがあるんだが、その消息不明の人物が確か『信州のヨシザワ』だったと記憶していたもので…」
 源は慌てて口内の塊を飲み込むと即答した。
「自分は東京生れの群馬育ちです。ですが、同じく狙撃手だった父は信州出身であります。しかし…」
 (父は消息不明になどなったことがない)…と続けようとした源の脳裏に、「憲兵」の言葉がこだました。父の最期の現場に居合わせ、暗殺の手引きをしたと思われる「憲兵」と重なったからである。
「その陸軍少将は、どなたでしたか?」
「名前までは覚えておらんなぁ。何しろそのときのオレは、軍令部のお偉いさんのカバン持ちだったからなぁ。上の連中の間では有名人のようだったぞ、何カ国語も話せるインテリで、会議の少し前までバリの武官だったそうだ」
 突然、比嘉が俊敏に反応し目を大きく見開いた。源はしゃべれないはずの比嘉が何か言い出すのではないかと思い、目に力を込めて彼をにらみつけた。比嘉もそれと悟り、乗り出しかけた上半身をゆっくりおさめ、中尉と源を交互に見ながら静かに食事を続けた。
 源はそのようすをハラハラしながら見守っていたが、艦長はたいして気に留めるようすもなく、再び踵を返し去って行った。
 中尉の背を見送り源が比嘉の方を見ると、彼は子どものように口をとがらせ肩をすくめて軽く首を振った。
 源は「その軍服でそのしぐさはやめろ!」と言わんばかりににらみつけ、いかにも米国人っぽい軽薄な動作を静かにとがめた。結城中尉の思わぬ問いかけをきっかけに、源の箸を動かす右手はすっかりスローダウンしてしまった。
 (…父が行方不明に? それを探していた元フランス駐留武官…、そして憲兵…? おそらく人違いだろう)。
 しばらく思案にふけていた源は、ひたすら食事をむさぼる隣人のせわしさに気づき、改めて目前の金属食器を見た。久しぶりの温かい日本食である。米海軍から提供されたものとは比較にならないほど質素だが、冷えたにぎり飯か乾パンしか出ない陸軍のそれとは大違いだった。
 箸の動きを再開させた源は、味覚がかもし出す幸福感に目を細めた。そして同時に素直な安堵感も、改めて味わっていた。
「助かった!」
 とりあえず、味方の戦線に帰還できたのだ。その過程はどうであれ、結果的に比嘉が力説していた「お国のための生還」を果たしたことになる。
 込み上げてくる率直な喜びに身を浸しながら、源はとなりの比嘉に再び視線を向けた。
 彼は米国仕込みのぎこちない箸さばきが乗組員にバレないよう、二本の細い棒切れとの格闘に熱中していた。忙しくて「とてもそんな感慨にさえふけっている余裕はない」といったようすである。
 しかし、そんな比嘉の丸まった背中は、自分の置かれた状況を悲観し落胆しているかのように、何となく源には小さく縮んで見えた。いずれにしても、二人の対照的な立ち場の違いは、わずか数時間前とはみごとに逆転し、戦争の特異性がもたらす宿命的なコントラストに彩られていた。
 食事が済むと、寝床に案内された。通常、乗組員の中でも兵卒はハンモッグを使用するらしいが、二人には人ひとりがやっと横になれる程度の、将校や下士官用と思われる狭く粗末な三階建てベッドが割り当てられた。
 早速もぐり込んで仰向けになってみると、天上に鼻先が届くのではないかと思うほど窮屈だった。ベッドの二階に収まった源は、数時間前に身を横たえていた米駆逐艦の広々としたベッドを思い浮かべ、ため息をついた。
「艦種が違うとはいえ、これが日米の格差か?」
 源の直下で横になっているはずの比嘉は、すでに眠りについたようだった。源はしばらく父と居合わせた憲兵の関係をあれこれ詮索していたが、しだいに押し寄せる睡魔に押し流されるように、深い眠りへと落ちて行った。
「おやすみ、…姉…ちゃ…」

●潜水艦の戦い

 ──それから、いったいどれほど寝たのだろう。鈍い金属音と、慌ただしい人の気配に気づき、源の意識は覚醒した。狭い密室である潜水艦内では、時間はもちろん昼夜の別さえ確認することができなかった。
「おお、目覚めたか狙撃兵。これから一戦はじまるぞ、しっかりベッドにしがみついてろよ」
 上半身裸の大柄な乗組員が大声でがなり、機関室の方へと忙しく走り去った。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋