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ゆきの谷

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 てっきり鉾先をかわされたと思い適当に聞き流していた髭の男は、突然出現した核心に驚き慌てて胸ポケットから手帳を取り出した。
「昭和八年五月八日午前七時二◯分、現場は利根川板東地区右岸。腐敗が進み一部は白骨化していましたが、熊毛の上着を着た、一目でそれとわかる猟師でした。鑑識の報告を待つまでもなく、死因も明らかでした。左胸部貫通銃創」
 寺泊は、大きくうなづきながらメモを取る男をながめながら、眉間にシワを集めたままゆっくりとした動作で煙草をくわえた。
「それにしても今日は、暑いなあ」
 手帳に鉛筆を走らせながら、男は老刑事のどかな上州弁に微笑み、さらにうなづきを繰り返した。
「刑事さんはその女性との忘れがたい記憶のおかげで、事件のことも鮮明に覚えておられたのですね。」
 男は笑みを残したまま、手帳に落としていた目線を寺泊に向け小声で続けた。
「…で、東京が引き継いだというのは?」
 穏やかな表情で白煙を吐き出していた寺泊の顔が固まった。
「そっ、それは勘弁してください。私の口からは言えません」
 男は鋭い視線で老刑事の困惑振りを凝視していたが、ほどなく再び満面の笑みを形成した。
「では独り言を述べますから、あなたは何も応えないでください」
 そう言うと男は、額に玉の汗を浮かべたまま寺泊に顔を近づけ耳もとにささやいた。
「東京というのは、ズバリ…、警視庁の特高ですね」
 寺泊は微動だにせず、正面を見据えていた。震える右手でぎこちなく灰皿に煙草を押し付けると素早く立ち上がり、まるで動揺した双眼を隠すように帽子を目深にかぶり直した。そして一瞬躊躇したのち腰をかがめて早口でつぶやいた。
「私はあなたを知らない。あなたも私を知らない。どこのどなたか存じませんが、恥知らずな老人の恋愛話に付き合ってくれてありがとう。では、これで失礼する」
 滴る汗をそのままに、そそくさと炎天下に去っていく老刑事の背中を見つめながら、髭の男はゆっくりと立ち上がり深々と頭を垂れた。数秒間の後に腰を戻した男は、駅舎内の時計を見やりもどかしい溜め息をついた。
「薩摩訛のおかげ…か。次の上野行きまで二◯分もある。
 …そういえばその美人、『どちらから来たのですか』という老刑事の問いかけには応えなかったのだろうか。上り列車から降りて来たということは、沼田? 水上? それとも湯沢? 六日町? 長岡?それとも新潟? …そしてその後、どうなったのだろう」
 男が右手に持つ、「横浜中華街・中華飯店」の名と住所・電話番号が印刷された粗末な手ぬぐいは、拭い続けた汗を一杯に含み滴るほど濡れきっていた。
 幾つかの小さなわだかまりを胸に籠らせたまま、男は無人の改札口に向かった。相変わらず鳴き止まぬ蝉の合唱と、松山東高の優勝を伝えるラジオの音を背中に浴びながら…。



【ビルマ戦線】

●激戦の中で

昭和一九(一九四四)年五月、英国領インド=東部マニプール州、トルブン──。

 スコールのあとの密林は、蒸し返すような暑さだった。それは源にとって、苛酷な熱帯の戦場で経験するはじめての戦闘だった。
 肉眼で確認できる敵は、中国戦線で見慣れた、同じような顔の東洋人ではない。背が高く目の青い白人の英国兵と、褐色の肌を持つインド兵だった。
 彼らはみな性能の優れた自動小銃を持ち、手榴弾や迫撃砲を惜しみなく撃ち込んできた。装備の面では、中国軍とは比較にならぬほど優れていた。
 不意の遭遇戦は激しさを増し、クライマックスを迎えようとしたそのとき。突然、小隊長の加藤均少尉が立ち上がり抜刀、凄まじい形相で前へ出た。吉澤源一等兵の二年間におよぶ軍隊生活の経験は、これが総員突撃の前ぶれであることを容易に予感させた。
 次の瞬間、加藤少尉は「ト・ツ・ゲ・キ・ー」の絶叫とほぼ同時に突っ伏した。略帽の後頭部付近から血を吹いたようすから、おそらく即死だったに違いない。
 源は驚いた。激烈をきわめる銃撃戦の最中、少尉を倒した銃弾は、明らかに後方から飛来したからである。弾道をたどって恐る恐る振り返って見ると、そこには、硝煙を振り払いながら小刻みに周囲をうかがう田所犀造軍曹がいた。部隊一の大男が、後方の木陰で首をすぼめて神経質そうに縮こまっている様は何とも異様だった。
 以前から話には聞いていた。混沌とした戦闘のどさくさにまぎれ、憎き上官を射殺する「味方打ち」の事例が少なからずあることを…。しかし、それを目の当たりにした源は、驚きと同時に荒廃した軍紀を憂い、肩を落として思わず目を伏せた。
 その後、日本軍の突撃の気配を察知した敵は一斉に後退し、戦闘はあっけなく終息した。
 あたりは急に静けさを取り戻し、苦痛をこらえる負傷者のかすかなうめき声と、慌ただしく人が動きまわる、雑草のすれ合う音だけがあちこちから聞こえた。やがて何人かの下士官が立ち上がり、敵と味方、双方の負傷者のもとへ走った。
 源が立ち上がろうとしたとき、後ろから大きな人影が近づき、聞き慣れた声が降りかかった。
「吉澤、けがはないか?」
 田所軍曹だった。彼は、つい先ほど「上官射殺」という非情行為を実行したばかりであるためか、少々興奮ぎみで顔も紅潮していた。彼ほどの歴戦の勇士が、この程度の戦闘でこれほど興奮するはずはなかった。その語調からして、源に目撃されたことには気づいていないようすだった。
「大丈夫です。しかし、小隊長が撃たれたようです」
 源は、自分が目撃したことを悟られないようにそう述べると小隊長のもとへ駆け寄った。田所もあとに続いた。
「大変だ、小隊長が撃たれた!」
 田所は、わざとらしくも迫真の演技で大声をあげ、動揺してみせた。一◯数名の偵察隊員たちが四方から集まってきて、加藤少尉の亡きがらを囲んだ。みな驚き、呆然と立ちすくんだ。やがて小隊長の補佐をしていた志垣上等兵が無言のまま敬礼をすると、みなそれにならった。
 結局この遭遇戦で、ほかに二名の軽傷者が出たが、戦死したのは小隊長の加藤少尉ただ一人だった。敵陣の跡には、重傷を負った白人兵二名が残されていた。
 指揮を引き継いだ最上級者の田所軍曹は、小隊長の亡きがらを埋葬するよう指示し、引き上げを宣言した。志垣上等兵は、自分が運ぶので基地へ連れて帰りたいと主張したが、田所は「付近には敵が多く、帰途も険しい山道である」ことを理由に、「埋葬は仮のものであり、あとで収容する」と説明しこの提案を却下した。
 その後もしばらく、あきらめきれない志垣上等兵の執拗な懇願が続いたが、田所は頑に拒否し踵を返した。
 比較的つき合いの長い源は、苛ついているときや緊張しているとき独特の田所の表情をよく理解していた。これまでにも、上官と激論しているときなどに何度か目撃してきたからである。源はその横顔を眺めながら、「あとで収容などするはずない」と確信していた。なぜなら、これは明らかに稚拙な証拠隠ぺい工作だと理解できたからである。
 確かに、周辺には虎をはじめ遺体を荒らす獣が棲息しているが、放置するにせよ埋めるにせよ湿度の高い熱帯の密林に留めることは、腐敗を促進させることになる。ましてそこが、敵陣にほど近い最前線であれば、後日出直して収容することなど、ほとんど不可能なことは明白である。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋