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ゆきの谷

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 源にとっては「魚、イコール山女魚」といえるほど親しみのある遊び相手だった。生暖かい南国の海面を跳ねる魚が山女魚でないことだけは確信していたが、源は嬉しそうな微笑みを浮かべて、しばし小魚たちの戯れに耳を傾けた。



【潜水艦の戦争】

●海軍中尉、結城艦長

 やがて夜闇を振払うように、かすかな青白い「明るさ」があたりに広がってきた。ずっと西の水平線を見つめていた源は振り返り、東の薄明るい空と、暗がりの中の声しか知らなかったヴァンベルク中尉の顔を交互に見た。それは源にとって、駆逐艦の医務室で対面した軍医に次いで二度目の、間近で見る友好的かつ生きた白人の顔だった。
「…大日本帝国陸軍上等兵、吉澤源です」
 源は身体の向きを変えることなく、振り向いた状態のまま中尉に黙礼した。一瞬、驚いたような表情をした中尉は、やつれ切った顔に笑みを浮かべて答礼した。
 源が、待ちわびた日の出を確認するように、再び東の空に視線を移したとき、比嘉の絶叫が響いた。
「船だ、助かった!」
 船の出現よりも、源は比嘉の挙動に驚いた。なぜなら、彼は先に日本語で叫び、次に中尉に英語で伝えたからである。こちらに近づいてくる船は、米海軍のそれと違い、濃い黒鉄色をした日本海軍の潜水艦だった。完全に立場が逆転した三人だったが、次の瞬間、源は理解不可能な光景を目にし、再び唖然とした。二人は大きく手を振り、先を争うように『ヘルプ・ミー』と連呼したのだ。
 米海軍軍人である二人に、潜水艦の敵味方が識別できないはずがなかった。しかも、つい今し方自分たちの乗艦を撃沈した相手かも知れないのに、…である。
(醜いものだ、相手が敵だとわかっていても、嬉しそうに命乞いをする。日本人が米兵を理解するには、千年はかかるだろう…)。呆れ返った風情で、源は大きなため息をもらした。
「東郷元帥の子孫である帝国海軍士官は、敵とはいえ無抵抗の将兵をぞんざいに扱ったりはしない、安心して捕虜になってください…」
 源が半ば軽蔑するように言葉を吐き捨てたそのとき、浮上前進する潜水艦の機銃が火を吹いた。
「ダッダッダッダッダ!」
 三人は慌てて身を伏せ、一様に動揺した。
「東郷元帥の子孫は、丸腰の相手にまで発砲するのか! ジュネーブ協定違反だ…」
 比嘉の引きつった金切り声が、源の背中に浴びせられた。
「……」
 源は絶句し、ばつ悪そうにうずくまったまま動こうとしなかった。(このままではマズイ、味方の銃撃で死ぬことになる…)。源はまっすぐ接近してくる潜水艦を確認すると素早く思案をめぐらせ、比嘉の耳もとに早口でささやいた。
「そもそも日本はジュネーブ協定など批准していない。それはともかく、どこの国にもはみだし者はいるだろう、キミはオレの軍服を着れば日本兵で通せるが、中尉はそうはいかない。彼には気の毒だが、海に飛び込んでもらうしかないな」
 一瞬考え込んだのち、比嘉が返答した。
「そんなことをして、もしボクの正体がバレればキミも罪に問われるぞ」
「大丈夫だ、オレの軍服はペリリューの激戦で焼失したと言えば済む。それにオレはこの方面の陸軍ではちょっとした有名人だしな、海軍が知っているかどうかはわからんが…。
 それよりキミがいくら東洋人の顔をしているからといっても、さすがに米海軍の階級章をつけた軍服のまま捕らえられればおしまいだ。相手は漂流者を見さかいなく銃撃するような、帝国軍人の風上にもおけないヤツラだからな」
 比嘉はしばらくためらったが、激しくなる一方の銃撃にせきたてられ、慌ただしく軍服を脱ぎながらヴァンベルク中尉に事情を話した。中尉は一瞬哀し気な表情を浮かべたが、無言のまま比嘉と源に素早く目礼すると反転し青黒い海面に身を投げた。
 源は急いで軍服を脱ぎ、比嘉に渡した。着替えの最中も二人には帝国海軍製銃弾が容赦なく降り注いだ。カッターボートの側壁の弾痕が幾重にも大きく広がり、ボートは急速に浸水して傾いた。ようやく銃撃が止んだとき、潜水艦はすぐ目の前まで迫っていた。
 艦橋からこちらを注視していた機銃兵とその取り巻きは、二人の顔を確認すると仰天して忙しく鳩首会談をはじめた。やがて太いロープが飛んできた。ほとんど水没したカッターの二人は、ほっとした表情で顔を見合わせ、ロープにしがみついた。
 潜水艦に引き上げられると、がっちりした若い士官が歩み寄り、硬く姿勢を正して海軍式敬礼で二人を迎えた。
「すまなかった、怪我はないか? 敵駆逐艦を撃沈した直後でもあり、よもや友軍兵士とは思わなかったのだ、許してくれ」
 艦長らしきこの海軍中尉は、敬礼を終えると歩み寄り、今度は握手を求めた。
「自分は陸軍第一五連隊、第三大隊所属、吉澤源上等兵であります。ペリリュー戦で捕らえられ、先ほど沈んだ敵駆逐艦に収容されていました。こちらは比嘉上等兵、同艦で一緒だった同じくペリリュー戦の残兵です。自分とは所属部隊が別だったので詳しくはわかりませんが、どうやら白兵戦の末、何らかの障害が残ったらしく言葉が話せなくなったようです」
 比嘉は、あまりにも滑らかな源の創作話に驚き呆然としていたが、瞬時に我に返り大きくうなづきながら正面を見据えた。中尉は完全に水没したカッターボートの破片を見おろし、あたりの海面に目を配りながら、訝し気に尋ねた。
「……。ボートにはもう一人居なかったか?」
「はっ、今朝明るくなってから発見した米兵でしたが、収容直後に絶命した死体であります」
 艦長は、肩を波打たせながら荒い呼吸の合間に途切れがちに話す源の言葉に耳を傾け、険しく深いシワを造成した。
「そうか…。敵の死体と帰還捕虜二人か…」

●謎の陸軍少将

 艦長はしばらく源と比嘉を交互に擬視していたが、副官が耳もとに何かささやくと途端に表情を変え、緊張を解いたように口を開いた。
「自分は帝国海軍潜水艦、呂五五号艦長、結城友三だ。部下に食事と寝床の準備をさせるので、どうか艦内でくつろいでいてくれ。キミは狙撃手として有名らしいな、吉澤」
 二人は艦内に案内され、鉄と油の臭いが充満する狭い一室に通された。比嘉はぐるりと周囲を見まわし、源に小声でささやいた。
「ずいぶん小さな艦だな、おそらく排水量は千トン程度だ。それはそうと、オレはキミが申告したとおり無言を押しとおすから、あとはよろしくな…」
 海軍軍人らしい比嘉の素早い観察に感服しつつ、源はそ知らぬ顔で当番兵が差し出した紅茶をすすった。艦長が源と対面する形で木箱の椅子に腰掛けた。そして源をなめるように見まわすと、頭をかきながら質問した。
「貴官はなぜ裸なのだ?」
 そら来たと思い、源はあらかじめ用意してあった答えを返した。
「はっ、ペリリューの白兵戦で敵の火焔放射を浴び軍服を焼失しました。たいした火傷を負わなかったのが幸いでしたが…」
 艦長は同情するような表情でうなづき、「これしかないが」と言いながら、海軍一等水兵の軍服を差し出した。源が恐縮して受け取ると今度は比嘉の方を向いた。
「貴官は、オレの言葉は聞こえているのか?」
 比嘉が慌てて小刻みにうなづいた。
「…そうか、気の毒になあ」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋