ゆきの谷
もし源が攻撃側なら、初弾を撃つ狙撃手のほかにもう一人、予想逃走経路が見渡せる地点に配置する。逃走経路が二方向考えられる場合はさらにもう一人。これは、自らがそうであるように、山間部のような遮蔽物にこと欠かないフィールドにおいて狙撃手が考える基本戦術である。
もしも軍が、脅しではなく本気で父を暗殺しようとしたのなら、これぐらいの準備は当然にやったはずだ。
(猟師が偽者だとすると、おそらく背広の男のほかにまだ何人かいたはずだ…)。重たくなったまぶたを押し上げようとしたとき、尻をくすぐられるような妙な金属音と微振動が近づいて来るのを感じた。
次の瞬間──、「ドーン」という大音響とともに一瞬全身が浮き上がり、激しい衝撃に襲われた。そして室内にあった明るさと、わずかではあったが確かに存在した平衡感覚が瞬時に失われるのを感じた。
「雷撃だ!」
さすがの陸軍上等兵も、すぐに事情を理解することができた。一瞬間に「やっと死ねる」という感慨と「死ぬことは利敵行為」という比嘉の言葉が交錯した。
轟音と艦の傾きが激しさを増してきたそのとき、外から施錠されていた鉄の扉をこじ開ける気配を感じた。
「逃げろ! 吉澤上等兵」
開きかけた扉の向こうから、比嘉上等兵曹の叫び声が聞こえるのと、扉のわずかなすき間から海水が飛沫をあげて飛び込むのがほぼ同時だった。源は比嘉の声に機敏に反応し、先ほどまでの眠気も忘れて本能的に走り出した。
海水の流入は驚くほど速く、廊下の角にある階段の手すりをつかんだとき、その水位はすでに腰に達していた。比嘉のすぐ後ろを走る日本兵に気づく米兵はいなかった。彼らも必死で逃げていた。
幾つか階段を登り、ようやく甲板に出た頃にはいよいよ傾斜がきつくなり、歩くこともままならなくなってきた。
自身の呼吸と心拍音、下方で響く爆発音、鉄のきしむ轟音と米兵たちの絶叫、そして無数の雑踏。焦慮をあおるこれらの音が入り交じり、源が顔をしかめたその瞬間、全身を被う海水の冷たさと意識が急速に失われるフワーッとした感覚に支配された。
「今度こそ、父の元へ…」
──時間的な感覚を失い真っ暗闇をさまよった源の意識は、今回もまた、いつものあの声で覚醒しようとしていた。
「…起きなさいってば、げん!」
目覚めるとき、梓織の声がすれば生きている証拠、そんなパターンが源の中にできつつあった。
(梓織姉ちゃん、オハヨウ)。意識を取り戻した源は、何度もまばたきし大きく目を見開いた。開けても閉じてもまったく変化がなかったからだ。周囲は頭が痛くなるほどの暗闇だった。そこは大きく揺れ、風と水しぶきを感じる寒々しい場所だった。
間近に人の気配を感じて、振り向こうとしたとき、源の頭に聞き覚えのある声が振りかかった。
「目覚めたらしいな、吉澤上等兵」
雲の合間から時おり差し込むかすかな月明かりをたよりに声の方向に目をこらしてみると、比嘉が不安そうに怯えていた。その後ろにもう一人、大きな白人の士官がいた。
「我々は艦から投げ出され、たまたま流れてきたこのカッターに救われたのだ。しかしオールがないのでもはや漂うしかない。どうやら日本の潜水艦にやられたらしい」
その言葉に源は一瞬ほくそ笑んだが、すぐに不安な気持ちへと後戻りしていった。月明かりさえ乏しく星も姿を消した無気味な暗がりと、大きくうねる海面に翻弄され、自らの運命を悲観するしかなかったからだ。(いったい自分は、死にたいのか、生きたいのか…)。
重油の臭いが鼻を突いた。おそらく駆逐艦が搭載していた燃料が周囲の海面を被っているのであろう。源の軍服もベトベトになっていた。目をこらして海面を見ると、付近には小さな浮遊物が多数点在しているようだった。ときおり風に乗って複数の声がかすかに聞こえもした。
「まだ海面で助けを求めている者がいるんじゃないか?」
源がぶっきらぼうに言い放すと、暗闇の中から比嘉の哀し気なつぶやきが返ってきた。
「この暗さと強風ではどうしようもないよ。さっきから何度も声のする方へ向かおうとしたが、二人の手でいくら漕いでも近づくことができない」
「………」
長時間全身ずぶ濡れになっていたせいか、源は久しぶりに「寒さ」を感じた。
「そういえば日本は今、真冬か…」
しばらく南国暮らしが続いたせいで、源の季節感はすっかりおかしくなっていた。赤道間近の真っ黒い大海原と故郷の雪山を「寒さの理由」をきっかけに交錯させた。むろん、本当の理由が「不安」にあることはわかっていたが。
比嘉の後ろにいた白人士官が、何やら英語でしゃべりだした。二人の米兵は幾度か問答したのち、比嘉が源に言った。
「彼はキミにこう言っている。『私はヨアヒム・ヴァンベルク中尉だ、もはや敵とか味方とか言っているときではない。三人で協力しあい、生還への道を探そう』と…。
吉澤上等兵は日本人、我々は丸腰のアメリカ人。さあ、どうする? お得意の武術で我々を殺すか、協力しあうか…、主導権はキミにある。なぜならアメリカ人は素手では日本人に到底かなわないと信じているからね」
余裕を感じる比嘉のその語り口は、源が当然、後者を選択するであろうと確信しているようだった。源は比嘉の問いかけを素っ気ない態度で無視し、しきりに風向きを探るような動作に熱中した。
「一二月、冬のこの時期にこの辺りで吹く風はおおむね北風だ。だから多分こちらが北だろう、…っていうことはあっちの方角、つまり西に進めばミンダナオ島があるはずだ」
比嘉は陸軍兵である源の意外な海洋知識に驚いた。
「今はこの暗さだ、どうしようもない。明るくなったら浮遊物をあさり、帆になるような布切れかオールの変わりになる棒を探そう…」
比嘉は源の一言一言をヴァンベルク中尉に通訳し、二人そろって感慨深気に何度もうなづきをくり返した。
時折、名も知らぬ小魚が躍動し、静まり返った海面をチャポン、チャポンと叩いた。魚雷や爆雷が炸裂した直後には、おびただしい数の魚の死骸が周囲を埋め尽くすという。人間同士の醜い諍いのいわれなき犠牲者であるはずの彼らだが、わずかな戦闘の合間にもかかわらずつかの間の静寂を愛おしむかのように、今生きていることの喜びを精一杯表現していた。それはまるで、不安と恐怖に震える三人を励ましてくれているように、源には感じた。
その愛らしいけなげな音を聞いているうちに、源は水上の渓流で共に戯れた山女魚の稚魚を思い出した。幼少の頃の数少ない楽しみだった谷川での魚釣りである。
山女魚は、標高三○○メートル以上の渓流に棲息するサケマス科の陸封魚である。メスのほとんどすべてとごくわずかなオスの一部は、ある時期になると下降し、餌の豊富な海や湖で急激に成長する。トレードマークであるパーマーク(小判形の斑紋)も消え、サケのように一メートル前後にまで肥大化するのだ。この山女魚の降海型を「さくらマス」と呼ぶ。サケマス科の魚類はさくらマスに限らず産卵期を迎えると宿命的に遡上し、故郷の渓流に帰ってくる。そして、ここで摩訶不思議な光景が現出する。
待ち構えていた二○〜三○センチほどの陸封型のオスが、一メーターを超える巨大なメスのまわりに群がるという産卵風景である。