ゆきの谷
「キミの右手は、いつも小刻みに動いていますね。そういえば、さっき診察した軍医が驚いていました。『彼は正真正銘のプロのスナイパーだ。引き金に掛ける人差し指には、大きなタコができていた。あれは連日、相当な猛訓練を、しかも長年続けなければできないタコだ。なるほど師団長が興味を示しただけのことはある』とね。いつもそうやって、そのタコをいじっているのですか?」
源は無言のまま米国製の洗練された煙草をくわえ、おいしそうに青白い煙を、ゆっくりと吐き出した。
●「比嘉」の日本人論
「他国人にはあまり見られない日本人の特徴のひとつに、『同一指向性』というものがあります。『大多数の同胞と異なる行動はとらない…』というものです。つまり日本人は、みんなが右を向いたら、自分の意思とは関係なく無意識のうちに右を向いてしまうのです。ただしこれは独自性や独創性がないということではありません。日本人は、それが許される状況下では個性を発揮し、または尊重する習慣を身につけています。しかし、日本人同士にしかわからない『空気を読む』ような感覚で、あるとき一斉に『同一指向性』を発揮するのです。これが不思議でした」
意味がよくわからず、怪訝な顔で煙草の煙を振りはらっている源をながめながら、比嘉も煙草に点火し話を続けた。
「一般論ではピンとこなくても、具体的に説明すればキミにも理解してもらえると思います。
例えば…、キミが子どもの頃、家族でお祭りに出かけたとしよう。そこでキミはアメ玉を売る露店を見つけ、親に『アメ玉を買って』とねだったが、にべもなく拒否されたとする。しかし、もし数人の友だちと出会い、彼らがみな親から買ってもらったアメ玉をおいしそうになめていたら…、キミのねだり方は変わったはずだ。
『ボクにもアメ玉を買って。みんなも買ってもらっているから…』と。するとキミの親はほかの子たちを見まわし、それを確認すると『仕方ないねぇ』と小銭を差し出す。
このときの親の判断基準は、家計の経済事情やキミの虫歯の進行状況、健康状態、アメ玉の安全性や価格といった、本来検討されるべきものではない。ただ『みんながそうだから』というキーワードのみがサイフを開けさせたんだ。しかも…」
源は、明らかに核心から遊離していると思われる比嘉の奇妙な例え話に少々いら立ち、彼の言葉を遮るように言った。
「それは連鎖というヤツだ。アメリカ人だって、空腹時にとなりの人がおいしそうなドーナッツを食べていれば、同じものがほしくなるだろう」
比嘉は大きくゆっくりと首を横に振りながら、源をなだめるようなしぐさをして続けた。
「…しかも、『みんなが買ってもらっているから』というのが、親が子どもにアメ玉を買い与える理由として、立派に成立しているのが不思議なのです。ときに親は、拒絶する理由としても同じ理屈を使います。
アメ玉を持っている子がたまたま一人で、ほかの四人が持っていなかった場合は『あの子以外は、みんな持っていないじゃないの!』持っていない子の方が多数だからダメと。そして驚くべきことに、これとはまったく逆の理屈を持ち出す強引な親もいます。『みんながどうだろうが、他人は他人ウチはウチ』と。
これは西欧的な個人主義の発想です。日本の賢い母親たちは、これらを都合よく使い分け平然としているのがおもしろいですね」
比嘉は、ここで少し笑いながら煙草を吸った。
「『みんなが○○○だから、自分も…』この論法は、まるで先に言った者勝ちのように日本人が好んで使います。なぜかというと、それが日本人にとって、相手を説得するための最も便利な、かつ効果のある論法だからなのです」
源は煙をくゆらせながら密かに感銘を受けていた。自分にとっては無意識の行動習慣であったが、改めて言われてみれば確かにおかしな理屈だと思えたからだが、それより、米国人が日本人のことをかくも細かく研究していることに驚いたのだった。
科学技術、資源、兵器など、国力のあらゆる面で日本を凌駕する米国は、東洋の小国など恐れる対象ではないはずである。にもかかわらず、およそ一聞すると戦争には無縁と思われるような、庶民の細かな習性についてまで研究している。(はたして日本は、アメリカ人の民族性など、どこまで研究していただろうか…)。
比嘉は大きく白煙を吐き出し、なおも続けた。
「これが、ボクたちのいう『同一指向性』です。良い悪いは別として、これを今次のような大戦争に当てはめると、大変なことになります。
何しろ大勢が闘い続ける限り誰も反目せず、基本的にみな従うわけですから…。最前線の将兵から各級の指揮官、東京の大本営、そして末端の国民ひとりひとりに至る、七千万人すべての日本人がですよ。現状のままアメリカ優位で戦争が推移すれば、『国民総玉砕』は単なるスローガンではなく、現実のものとなってしまいます。事実、ガダルカナルでもサイパンでも、日本人は絶望的な戦いを止めず、みな死にました」
短くなった煙草を灰皿でもみ消しながら、源は無表情のまま冷徹に言った。
「…だってそれが戦争じゃないか。負ければ国は滅びる。あたりまえだ」
比嘉はその態度と言葉に反応し、憎しみを込めた鋭い視線を源に向けた。二人は、お互いが敵であることを改めて再認識し、火花を散らせてにらみ合い、次の瞬間に目をそむけて黙り込んだ。
源は、これまでの温厚な態度とはうって変った比嘉の、あまりにも感情的な反応に少々戸惑い疑問を持った。そしてすぐに、反応の鋭さからしてその感情が宗教観や道徳心からわき起こるものではなく、もっと身近な「経験」に由来するものであると直感した。
何やら穏やかな声の艦内放送が鳴ったが、比嘉は反応せず黙り込んでいた。煙草の煙が充満する殺風景な室内を支配していた緊張感と静寂は、源のつぶやきにかき消された。
「なぜ、日本人だけそうなんだ?
その『同一…』何とかっていうやつ。さっき『他国にはあまり見られない日本人の特徴』だと言ってたよな? どうして『他国民』にはなく、日本人にだけあるんだ?」
比嘉は横を向いたまま、源と同様に感情を抑えた冷ややかな声で応えた。
「…多分、日本人には、本格的な遊牧生活の経験がなかったからでしょう」
「?…、遊牧?」
源は、意外な返事に驚いた。実のところ、鎖国や明治維新あたりにその遠因があるものと推測していたからだ。「日本だけ」で思い浮かぶことといえば、鎖国ぐらいしかなかったからである。
「遊牧生活の経験って何だよ。確かに日本は縄文時代から二、○○○年間、農耕一筋でやってきた国だが、それは中国や南アジアの国々だって同じだろう」
憮然としていた比嘉は素早く向き直り、源の会話継続の意思を確認すると再び穏やかに語り始めた。
「…確かにそうですが、同じ農耕民族でも中国などの場合は、歴史的に遊牧民族との接触がかなりの期間にわたってあったのです。諍いも含めてね。
中国に限らず、大陸の農耕民族はほとんどがそうでした。それが文化交流と呼べるかどうかは別として…。そう、正確に言うと『日本人は、遊牧民族との大規模な文化交流がなかった唯一の農耕民族』ということですね」
源はそれでも理解できず、呆然としていた。