ゆきの谷
兵器では劣るかも知れんが、兵隊の資質では比較にならんほど日本兵の方が上等だ。なぜだかわかるか? 第一に、日本が皇国だからだ。我々は、兵隊も民間人もみな国のために生きている。天皇陛下のためなら何でもできるし、死も恐れない。そのように教育されているからな。
第二の理由は、日本人が貧乏だからだ。これは教えられて身につくものではない。貧乏だから心の底から必死になれる、必死になれば怖いものなんてなくなる。貴様らアメリカ人は金持ちだから、必死になどなれない。なれるとすれば、大方プロポーズと初体験のときぐらいだろう。日本人は、数時間後の喰いもののために生命をかけるぐらい、連日連夜、三六五日、とにかく必死なんだ。米を喰うためにも、その米をつくるためにも、家族を守るためにも、国を護るためにも、いつも必死なんだ。だ・か・ら・強いんだ!」
半ばヤケクソぎみだった。否、ヤケクソだった。後半はかなり乱暴な理屈だったが、源は顔を真っ赤にし、以前に聞いた山元の弁説のように気迫を込めて叫んだ。すると黙って聞いていた比嘉は、急に悲しそうに顔を曇らせて言った。
「国のために、そんなに必死になれる日本人の多くが、なぜ捕虜にならずに自殺するのですか? 半年ほど前にボクはサイパン島で、断崖絶壁に追いつめられた日本人に投降を呼びかける仕事をしましたが、兵隊だけでなく民間人の女子までがみな自殺しました。これが不思議でならないんです…」
源はうんざりした表情で煩わしそうに首を横に振った。
「だからーっ。今も言ったとおり、日本人は国のためには死も恐れない民族なんだ。その上、アメリカ人と違ってみなまじめなんだよ。自分の生命はスメラノミコト、つまり天皇のために存在すると考えている。おそれ多くも天皇の子として、恥をさらすことなく、御国のために潔く死んで行くのは当然じゃないか。それが日本人のあるべき姿なんだ」
比嘉は大きな目を見開いたまま考え込んでいたが、再び静かにゆっくりと口を開いた。
「ボクがわからないのは、『御国のために』と言いながらなぜ死に急ぐかなんです。アメリカ軍に追いつめられて逃げられなくなったからといって、そこで死んでしまったら、もう国のために働くことはできませんよ。
あえて死なずに捕虜になれば、米軍は先ほどあなたにしたように、取りあえずは食事を提供しなければなりません。わずか一度の食事でも米軍の、つまり敵国の負担を増やしたことになります。そのまま捕虜として生き続ければ、食事の機会は増え負担は益々増大します。また、もしチャンスがあって脱走できれば、戦線後方のかく乱もできるし、運が良ければ兵士として前線に復帰し、再び闘うことができるかも知れません。そういう人が何一◯人も何百人もいたら、これは米軍にとってとても大きな脅威となります。つまり、恥をがまんして生き続けた方が、結果的にお国のためになるのです」
源は、すかさずいきり立って反論した。
「そんなこと言ったって、投降先の米軍がいかなるときも捕虜に食事を提供するとは限らないじゃないか。捕まえた途端に殺すかも知れない。少なくとも捕まったことのない日本人は、そう思っている。そんなことで、恥を…」
今度は比嘉が、源の熱弁を遮るように身を乗り出し、たたみかけた。
「それはおかしいですねぇ。もし捕まった瞬間に殺されたとしても、自殺するつもりだった人にとっては本望のはずだし、少なくとも敵の銃弾を一つか二つ、確実に消費させたことになります。仮に撲殺されたとしても、いくばくかの敵兵の運動エネルギーを奪ったことになりますよ。これもほんのわずかではありますが、敵に負担を強いたことになりませんか。
闘わずに自ら死ぬということは、捕虜になって敵に負担をかけることもせず、わずかに銃弾の一つも消費させることもないわけですから、まさに敵を喜ばせるだけの『無駄死に』です。どう考えても、それが日本国や天皇のためになっているとは思えません。
ただ『恥をかかずにすんだ』という、自己満足だけではないですか。もっと言えば、それは死の瞬間を自身で選択したいという、単なる憶病者のエゴ以外の何ものでもありません。もっともボクは、捕まることを決して『恥』だなんて思っていませんが」
「そ、それは…」
源は、あまりにも合理的かつ整然とした比嘉の反論に言葉を失った。そして同時に、山元の「戦争論」を思い出した。
《…欧米人は、勝つためには手段を選ばない。そこには『武士道』も『騎士道』も『プライド』もない。…ヤツ等は平然と捕虜になる。オレには理解できんが、そこまでバカになれるから、ヤツ等は強いんだろうな…》
なるほど、この米兵の思考パターンは山元の言うとおりだった。一気にしゃべりまくった比嘉は呼吸を荒げ肩で息をしていたが、呆然と宙をにらむ源に気づくと今度は諭すような口調で述べた。
「あなたや、正直な多くの日本人は、勘違いをしているのです。明治維新以来、日本軍人の聖典とされてきた『軍人勅諭』というものがありますね。これを前首相の東条英機がより具体的に改めて記した『戦陣訓』には、確かに『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ』とあります。しかしその主旨は、陸軍典範令のいう『天皇の御為に死すことは永遠に生きること』ではなく、ボクはこう理解しています。『捕虜になるぐらいなら死ね』ということではなく、捕虜になることは死ぬぐらい恥ずかしく罪深いことだから、『何があっても決して捕虜になるな』と。つまり、それぐらいのつもりでがんばれという、一種の激励だったのではないかと…」
源は、比嘉の日本軍に対する造形の深さに驚き、聞き入った。
「…ボクはアメリカ海軍情報部で、日本とその軍隊について二年間研究しました。実は、今こうして捕虜のキミと会話ができるのも、『日本研究』への上司の理解があるからなのです。
はじめは日本という国が理解できず、父に助言を求め解説してもらうことも多々ありましたが、辛抱強く研究を重ねていくうちに、非常に魅力的な国であることに気づきました。日本は本当に素晴らしい国です。しかしボクも軍人である以上、この仮想敵国に惚れ込んでばかりもいられません。それは、日本と戦争になった場合を想定した研究だったのですから。
日本人の習慣や民族的特性を分析して、思考傾向や弱点を知り、それを戦略や戦術に有効に結びつける研究なのです。二年間でいろいろなことがわかりました」
比嘉はあえてここで口を閉じ、「どうしますか、続けますか?」と言わんばかりに顎をしゃくった。源は改めて室内をゆっくりと見まわし、「ほかにすることもないので…」といった風情で、比嘉に発言を促すしぐさをした。すると比嘉は、思い出したように再度、源に煙草を勧めた。
しばらくためらったのち、源は一本を抜き取って口にくわえ、比嘉が差し出すライターの火にかがみ込んだ。それは、これまでに見たこともなかった銀色の豪華なライターだった。顔を近づけたときのツーンと鼻を突く油の臭いが印象的だった。