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ゆきの谷

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 むろん英語なので何を言っているのかは不明だったが、妙に早口で忙しいその声の調子から、かなり緊迫したようすがうかがえた。すかさず残った憲兵が源に銃口を向け、退室を促すように小首を振った。その顔も緊張感でこわばっていた。源は両手を後頭部に組まされて、元いた部屋の方へ廊下を歩かされた。
 艦内は慌ただしく走りまわる足音で充満し、鳴り響くスピーカーの声は、より一層切迫感を増していた。どうやら戦闘がはじまるようだった。源はトボトボと歩きながらこのあとの展開を思い描き、ほくそ笑んだ。
 日本海軍の艦載機が来るのか、あるいは連合艦隊が砲撃をはじめるのか…、外の状況はわからなかったが、いずれにしても孤立した源にとっては待望の「援軍到来」である。
 むろん、この駆逐艦に自分が乗船していることなど攻めてくる日本軍が知っているはずもなく、艦ごと撃沈してくれれば捕虜の汚名は海中に没し、日本兵としての責務を全うしたことになるからである。源は喜々として、心の中で「バンザイ」を叫び、鉄格子の付いた分厚い扉の部屋に戻った。間もなく砲撃がはじまった。小口径砲と思われる比較的細かな連射音が複数響いていたので、源にもこれが高射砲であることがすぐに理解できた。
「…友軍はやはり艦載機か」
 窓のない密室でしきりに壁や床に耳を押しあて戦況をうがかおうとしたが、その後は散発的な砲声がするだけで、期待した魚雷や爆弾の大炸裂音はいっこうに聞こえてこなかった。
 結局、わずか一○分ほどで砲声は鳴り止んだ。
「何だ? …味方の艦載機はもう全滅してしまったというのか?」
 戦闘態勢も解除されたらしく、だらだらと動きまわる安堵の足音と雑然とした会話が聞こえ、張りつめた緊張感も霧散していった。源は落胆し、ベッドに横になった。
「オレは、この先どうなるのだろう。いったいどこへ連れて行かれるのだろうか…」
 殺風景な鉄の天上をながめ、大きなため息をもらした。しばらくすると、ドアを開ける重たい音とともに例の上等兵曹が入ってきた。ドアの外に警備兵を残し入室するのは一人だけのようである。源は起きあがろうとしたが、彼は手ぶりで静止しながら近づいてきた。
「キミと親しくなりたくて話をしに来た。上官の許可が降りたのでな。もちろん尋問なんかじゃないから安心してくれ。キミとこの戦争について意見交換がしたいだけだ。アメリカ軍代表のボクと、日本軍代表のキミとでね」
 上等兵曹は笑顔でそう言うと、ポケットからスマートな米国製「シガレット」の箱を取り出し、源に勧めた。

●日系上等兵曹「ヒガ」

「米兵と話すことなどない。意見交換などとほざいているが、大方捕虜になった腰抜け日本兵をからかいにでもきたんだろ」
 源は吐きすてるようにそう言うと、煙草には目もくれず、まだ微笑みの残る彼の顔を冷たくにらみつけた。
「そんなことより、さっきの砲声は何だったんだ? 日本機の空襲じゃなかったのか?」
 どうせ教えてはもらえまいと思いつつ、ぶっきらぼうに尋ねてみた。
「ああ、あれは大したことありません。日本海軍の偵察機が一機、本艦に接近してきたので発砲しただけです」
「……」
 予想外の回答に源は驚いた。状況を素直に教えてくれたこともそうだったが、わずか一機の、しかも非武装の偵察機にあれほど大騒ぎし、さらにそのことを恥ずかし気もなく平然と告白するとは…。半ばあきれて呆然としていると、彼は源の反応など委細かまわずしゃべり出した。
「ボクの名はアンソニー・ヒガ(比嘉)。父は沖縄出身の日本人です」
 と、いきなり自己紹介をはじめた。(なるほどこの変な日本語は、米国訛と琉球訛の合成加工品だったというわけか)、それでも源は天上を見つめたまま黙っていた。
「父は、四○年ほど前にサンフランシスコに渡り、日系二世の母と結婚しました。…こうして日本語もしゃべるし容姿も東洋系、というよりウチナンチュー(沖縄人)だけど、ボクの魂はアメリカ人です」
 小柄な上等兵曹「比嘉」は、笑顔を絶やすことはなかったが、これが緊張の裏返しであることを源は見抜いていた。話し終えると、しばらく源のようすをうかがうように沈黙していた比嘉は、思い出したように再び口を開いた。
「そうだ、キミには『生け捕りにせよ』という異例の命令が出ていたんだよ。凄いスナイパーだから司令官が勲章をあげたいと。つまりキミは、我々アメリカ兵の間では有名人だったんだ…」
 米英の指揮官が、日本人狙撃兵の銃を欲しがっているという話は、以前にもビルマで聞いたことはあった。居合わせた戦友たちはみな「大いなる勘違いだ」と笑っていたが…。なぜなら、同じ「米国の敵」でも相手がドイツ兵なら、狙撃銃はモーゼルKar98kという、米軍のスブリングフィールドや英軍のリーエンフィールドの手本となった名銃を所持しているはずだが、日本兵のそれは多くの場合三八式歩兵銃である。
 これは、同じくモーゼルをベースにしていたが、スブリングフィールドやリーエンフィールド銃と比較すると威力や発射速度、飛距離、命中精度など、どれをとってもかなり劣る粗末な旧式小銃なのだ。また、装飾品はおろか照準器さえない場合が多く、およそ記念品には相応しくないしろものだったのである。しかし、米軍指揮官が本当に「狙撃兵を捕まえろ」と命令したのであれば、その目的は「銃欲しさ」以外には考えられず、その指揮官は、よほど日本陸軍の制式装備品に疎かったのだろうと源は思った。
 自分の銃がどうなったのか源は知る術もなかったが、もし指揮官が自分の「三八」を手にしたのであれば、さぞや落胆したことだろうと思い苦笑し、ささやかな同情心さえ覚えた。
「キミとキミの愛用小銃が収容されたとき、我々の司令官はとても喜び、感銘を受けていたよ」
「???」
「だってスコープ(照準器)すらない、あんな小銃で高度な遠距離精密射撃をやってのけたんだからね」
 源は困惑した。銃ではなく自分が興味の対象になっていたことにも驚かされたが、敵の指揮官や兵に誉められるという、前代未聞の珍事をどう受け止めればいいのかわからなかったからだ。同時に、兵器開発における日本の技術の低さと軍需予算の乏しさを皮肉られたようにも思え、少々腹も立った。源は反応に苦慮したが、比嘉はかまわずに続けた。
「とにかく日本兵は強い。わが司令官はその秘密が知りたくて、キミを生け捕りにしたかったようだ」
 源は、相手にすまいと思っていたこの敵兵に、どんな反論をぶつけてやろうかと、いつの間にか思案をめぐらせるようになっていた。しばしの沈黙ののち、発言を促すような比嘉の目線につられて口を開いた。
「日本兵が強いんじゃないよ、米兵が弱いんだ。キミらは自由と快楽のとりこになっている。そんなヤツらに戦争ができるわけない。そりゃあ、大艦隊だ戦略空軍だと兵器こそは立派だが、それら兵器に頼り切ること自体、弱虫で臆病な証拠だ。さっきのザマは何だ? たかが一機の偵察機に艦をあげて大騒ぎしやがって、臆病にもほどがある、恥を知れ。敵とはいえ、同じ軍人として情けないよ。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋