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ゆきの谷

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 配管や電灯のスイッチに、アルファベット文字の表記を発見したからである。源は再び鉄製の簡易ベッドにもどり、座禅のようにあぐらをかいて座った。そして輝きを失った目をゆっくりと閉じた。
「自分は生きている。そして、捕虜になったのだ」
 閉じた双眼からあふれる無念の輝きが、左右二筋の線を描いた。そして、戦友や中川大佐と死をともにできなかった不運を嘆き、故郷の家族に汚名をきせてしまったことを悔いた。
「自分と自分の家族や、世話をしてくれた多くの人々を、まさか、思いもよらぬこんな最悪の形で、裏切ってしまうなんて…」
 日本兵にとって捕虜になることは、陛下や家族への裏切りであり、これ以上はない最大の屈辱だったのだ。
 そのとき、次第に近づいてくる複数の固い足音に気づき、源は目を見張った。足音の主は部屋の前で歩を止め、一瞬間後、無造作にドアを開け広げた。緊張する源の視界に、白人の大男と小柄な東洋人が飛び込んできた。それは源にとって、血生臭い戦場以外で見るはじめての外国人だった。
「お目覚めですか、ヨシザワ上等兵」
 いきなりの日本語に驚き、源は呆然とした。米海軍上等兵曹の階級章を着けた小柄な東洋人は、かまわずに続けた。
「艦名まで告げることはできませんが、ここは米海軍駆逐艦の中です。アメリカ海軍は、戦時捕虜をジュネーブ国際協定に則って扱います。特にあなたのような優れたスナイパーには敬意を表し、勇者にふさわしい扱いをさせていただきます。ですから緊張する必要はありません。リラックスしてください」
 流暢な日本語に当惑し、後頭部の傷をさすりながら目を見開いていた源の前で、今度は海軍中尉の襟章を着けた白人が、上等兵曹に英語で何やらつぶやいた。上等兵曹は二、三度深くうなづくと、源に向かってやさしく語りかけた。
「ようこそ、アメリカ海軍へ…。あなたの戦争は終わりました、どうぞリラックスしてください。間もなく温かい食事と清潔な着替えをお届けしますので、しばらくお待ちください」
 やたらと「リラックス」を強調するのは、どうやら自殺を懸念しての配慮のようだった。確かに日本兵は、よほどのことがない限り捕虜にはならないし、運悪くもしなったとしても自決するケースが多かった。
 源は、心の中を見すかされているような気持ちになり、なぜか自分がみじめに思えた。気がつけば、身体に染みついている「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神につき動かされ、自害の方法とそのタイミングを、無意識に模索していたのは事実だったからである。
「鬼畜米英」と教えられ、実際にビルマで英陸軍の「鬼畜ぶり」を嫌というほど体験してきた源は、米海軍の紳士的な振るまいに少々当惑した。
 一般に、陸軍将兵と海軍将兵では、その気質や戦争観にかなりの違いがあり、その影響は捕虜の扱いにも少なからず反映されるといわれる。そして、陸海両軍将兵の気質や戦争観を大きく離反させる原因は、日常の行動パターンと置かれた環境の違いに由来する。
 特に、機械化が遅れていた陸軍と世界屈指の先進的兵器を誇る海軍によって構成されていた当時の日本軍は、その傾向が顕著であった。
 陸軍の場合、いかに遠距離といえども、その移動手段は基本的に徒歩であり、作戦日程の計算も兵の歩行速度が基礎になる。また、大砲や砲弾、各種資材の輸送も人馬が頼りである。決戦となれば、遠距離からの砲撃戦もあるが、結局のところ肉弾攻撃や突撃による白兵戦で決着する。生身の人間どおしが、お互いの体臭や飛散する血の生温かさを感じながら死闘を演じるわけである。
 おのずと「人」中心の現実的発想となり、「上下」をはじめとする対人関係が、将兵の資質や命運を左右することとなる。しかるに、総じて最前線に近い将兵ほど気性も荒く、敵に対する憎悪の念も態度に出やすい。
 ところが海軍の場合、海上勤務の将兵は空調の完備した軍艦に留まり、見えない敵との機械的な戦闘を日常とする。作戦の移動速度も艦艇のスピードが基礎となり、艦砲による決戦時でさえ、砲術計算をはじめとするクールで綿密な頭脳作業が主体である。
 敵将兵と間近に向き合うことも滅多になく、常に「船」という集団単位で行動する。したがって、総じて合理的かつ理想主義的なインテリ傾向が強く、裏を返せば陸軍とはまったく逆の非現実的戦争観、あるいは非感情的敵対思想が主流となる。
 捕虜に対しては寛大で紳士的に振る舞う傾向が強く、そのようすは、日露戦争末期の日本海大海戦直後に、負傷した敵将を手厚く介護させた東郷元帥のエピソードにもうかがえる。
 日本軍ほどの差異はないが、米英の陸海軍にもその傾向は見られた。
 これまで海軍との交流がほとんどなく、ましてこれが敵国となれば、異次元のような未知の世界だった源が、米海軍の紳士的な捕虜の扱いに困惑したゆえんである。陸軍の荒々しい気質にもまれてきた源には、このような姿勢は、ときに軟弱にも見えた。

●米駆逐艦内

 やがて提供された久しぶりの温食と熱いシャワー、衛生的な衣服に、源は戸惑いながらも秘かな感動を覚えた。日本陸軍では到底望むべくもない贅沢であり、まして捕虜とはいえ敵兵に提供するなど、考えられないことだからである。
 当然ながら、食事のメニューもシャワーもすべて洋式であり、そのどれもが源の戸惑いを増幅させた。着替えだけは拒絶し、異臭を放つ泥まみれの軍服を再び着たものの、すっかり蘇生した源は、今度は「軍医が診察をする」と聞き三たび驚いた。
 シャワーのときも自己診断によって確認したが、脚の古傷と後頭部の打撲傷以外に負傷箇所は見あたらなかったし、頭部もタンコブはあったがケガなどと呼ぶほどのものではなかった。
 迎えにきた東洋人の上等兵曹に、必要ない旨を説明したが、彼は「遠慮無用」と微笑むばかりで、半ば強引に源を医務室へと押し込めた。
 室内には、小銃を担いだMP(憲兵)が二人いた。ここでも自殺を警戒しているらしく、およそ凶器になりえるようなものは、手の届く範囲には見あたらなかった。
 源は憲兵の鋭い眼光と、軍医とおぼしき白衣をはおった大男の迫力に圧倒されて、反抗的な態度を放棄した。「好きにしろ」といわんばかりに開き直り、勧められた椅子にでんと腰掛けた。
 軍医は素早く後頭部を観察し、手際良く薬剤を塗り込んだ。ほかに伝染病や栄養状態、血圧などを探っているようだったが、源はその間、室内のようすを見まわしてひたすら感心していた。
 そこは、およそ駆逐艦内の医務室とは思えず、最新設備が整った総合病院の診察室のようだった。大都市にはいくつかあるだろうが、源が育った群馬北部には、「これほどの設備を持った医療機関はおそらく存在しえないだろう…」などと考えていた。
 ひととおりの診察が終わったと見え、軍医は憲兵に何やら命令し、憲兵の一人は例の上等兵曹を呼びに出ていった。
 そのとき──、突然慌ただしい艦内放送が源の耳をつんざいた。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋