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ゆきの谷

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【序】

●上越線渋川駅

 昭和二五年八月、群馬県渋川市──。

「はい、こちら渋川南警察署」
 利根川の水面を舐めて渡るそよ風が、開け放たれた窓から流れ込んでは来るものの、署内は蒸し返すような暑さだった。
 誰もが団扇か扇子を片手に持ち、しかめた顔で執務にあたっていた。
「テラさん、例の探偵からです、あの件で。昨日は『担当者が不在だ』ととぼけたんですが…、しつこい奴です。どうしますか?」
 老刑事寺泊は煩わしそうに口を真一文字に結び、受話器を手で覆う若い刑事をにらんだ。思案顔のままゆっくりと白髪をかき上げ、忙しく動かしていた扇子を置くとその手を受話器に伸ばした。
「はい、私が事件を担当した…」
 四日前に伊香保温泉で発生した心中事件のため、署内はごった返していた。ただでさえ暑いのに、人の出入りが多く電話もひっきりなしに鳴り続けていたため、みないら立っていた。
「わかりました。では一五分後に…」
 通話を締めくくる寺泊の言葉に、周囲の何人かが意外そうな顔を上げた。
「テラさん、探偵と会うんですか。あの件は東京から口止めされているはずですよ、大丈夫ですか」
「おいおいテラさん、また何か背負い込んだのか。これから伊香保まで一緒に行ってもらおうと思っていたのに。まったく人がいいなぁ、あんたは…」
「課長、すみません。今聞いたんですが、ヤッコサン渋川まで来ているんですよ、わざわざ横浜から…。無粋に追い返すわけにもいかんでしょう。
 それに、少し嗅ぎつけている風でもあるので、ちょっとその辺も探ってみたいんです。駅前で五分ほど話をするだけですから、その後、直接伊香保で合流しますよ」
 話しながらひしゃげた布の帽子を頭にのせ、一回りも年下の上司に軽く会釈すると、老刑事はデカ部屋をあとにした。
 屋外は、肌を焦がす猛烈な陽射しで茹だっていた。
 寺泊は顔に刻まれた深いシワをより一層深め、建物の日陰を選びながら歩き出した。これでもかと降り注ぐ蝉の鳴き声と、どこからか小さく聞こえてくる、松山東高対鳴門高の激戦を伝える高校野球の中継が暑苦しさを倍増させていた。
「もう決勝か…」
 渋川駅──。
 駅舎の前には、体格のいいカイゼル髭の男が立っていた。周囲にそれらしい待ち人は見当たらなかったため、すぐにそれとわかった。男も老刑事を見つけ笑顔で近づいてきた。
「お忙しいところご足労いただき、どうもすみません。私が…」
「お互いに、名乗るのは止めときましょう。きっとその方がいいと思います」
 髭の男は怪訝な表情でゆっくりうなづき、駅舎内のベンチに寺泊を手招きした。二人は壁に据えつけられた白塗りの木製ベンチに腰掛け、一斉に汗を拭った。
「昭和八年に坂東で上がった遺体についてでしたな…。ところで榛名山の麓にある伊香保温泉はご存知ですか。つい先だって、そこで厄介な事件が起きましてな、私もすぐに合流しないといけないので時間がありません。ですから質問は簡潔に願います」
 寺泊は男の足元に視線を落としたまま、相手の顔を見ずに早口でしゃべった。
 男は一つ深呼吸をし、髭を摘みながら滑らかに口を開いた。
「水上から下って前橋辺りまで、利根川沿いを管轄する警察署をすべて当たりました。やはり猟師の遺体は上がっていたのですね、ここ渋川で…。死因など遺体の状態が知りたいのです」
 寺泊は質問の内容が充分に予測できていたので、用意しておいた答弁を素早く返した。
「お応えできません。先ほど電話でもお伝えしたとおり、事件は東京が引き継ぎましたので…」
 男は無言のまま煙草を取り出して点火した。寺泊はおもむろに立ち上がり、軽く会釈して立ち去る気配を示した。
「自分は聞屋ではなく、一介の探偵です。今更、一七年前の事件を掘り返そうってことではないのです。警察や旧陸軍の不正を追求しているわけでもありません。本件は、ある家族の過去を調べる過程で必要な、言わば枝葉の事実調査なんです。あなたが現場で見たことだけでいいですから、教えていただけないでしょうか」
 寺泊は一瞬立ち止まり、丸まった細い背中を反転させた。そして薄笑いを浮かべながら、初めて男の顔を真正面から見据えた。
「てっきり横浜の人だと思っていましたが、切羽詰るとお国の訛りが出るようですね」
「?…えっ」
「女房の妹が九州に嫁いでいるもので、私にもわかるんですよ、薩摩訛が」
 男は頭をかきながら苦笑した。その笑顔の横をすり抜け、老刑事は首筋の汗を拭いながら元居たベンチにゆっくりと座り直した。

●老刑事の記憶

 そのとき、上りホームに汽車が滑り込んで来た。けたたましい騒音と炭煙の臭いが駅舎に充満し、人と空気が一斉に動き出した。
 二人はしばらく目を細め、しかめっ面を維持したままそれらをやり過ごした。上り列車は数人の乗客を吐き出したのち、もうもうと黒煙を噴きながらゆっくりと南へ走り去って行った。
 レールと車輪の金属音は遠ざかり、遠くで鳴く蝉の声とかすかに聞こえる高校野球のラジオ中継が、何事もなかったように舞い戻っていた。
「あれは…、五月の霧雨の降る肌寒い朝でした。野暮用で、あそこの…」
 寺泊はまぶし気に眉間にシワを寄せ、上半身を伸ばして正面の駅前派出所を指差した。
「…交番で調べ物を終えて署に帰ろうとしたとき、ちょうど今のように上り列車が入って来ました。そしてしばらくすると、美しい娘さんが改札口からやって来て、申し訳なさそうにメモ用紙を差し出したんです」
 聞き入っていた髭の男は、話の方向を捻じ曲げられる予感を察知し、思わず顔をしかめた。
「書いてある住所の方角が知りたいというんです。応対した警官の肩越しにメモを覗いてみると、住所は渋川市北橘の真壁というところでした。
 警官は『一駅上った八木原駅からならすぐだが…』と再び汽車に乗ることを勧めたが、娘は首を横に振った。身なりから察するに、汽車賃がないのだろうと直感した私は、署と同じ方向だったので案内を買って出ました。彼女は傘さえ持っていなかったんです」
 老刑事は、まるで甘酸っぱい青春の記憶をたぐり寄せるように、双眼を細めて宙空を見やった。
「娘ほど年の若い女性と、一つの傘で無言のまま歩きました。しばらくすると息苦しさに耐えられなくなり、私は口を開きました。『どちらから来たのですか、渋川へはどんな用件で?』。すると彼女は思案し、消え入るような小声で語ってくれました。
 『自分は看護婦で、村の診療所長の紹介をいただき、真壁に住む軍医のところへ…』行くのだと」
 寺泊は年甲斐もなく、うっとりと微笑んだ。緩んだその表情は、まるで初恋の思い出を語るシャイな少年のようだった。髭の男もおでこをかきながら作り笑いを形成し次の言葉を待った。
「阪東橋を渡っているときでした。突然彼女が小さな声で言ったんです。『…人が流れている』と。
 私は何のことかわからず、とっさに彼女の顔を覗き込みました。そしてその悲しげな視線を下方に追うと、川面の端で白い流れの渦に浮き沈みする黒い塊がかすかに見えたのです。
 あんなに高い橋の上から、増水した濁流の、しかも霧雨で視界がきかないあの状況で…。まさに奇蹟でした。そう、あの遺体は彼女が見つけてくれたんです」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋