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ゆきの谷

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 ところが、佐藤前師団長は、何ら責任を問われることはなかった。
 なぜか──。
 それは陸軍首脳が、軍法会議によってインパール作戦の失敗がつまびらかになり、その責任が第一五軍、ビルマ方面軍などを経て、大本営(陸軍中枢部)にまでおよぶことを怖れたためである。また、一方的に佐藤を裁けば、天皇が直接任命する親補職の「師団長」を断罪することとなり、そのまま天皇の任命責任までが問われることになりかねない。
 当時の陸軍首脳は、御上と自らの責任を回避するために、あえて「反逆者」佐藤幸徳中将を不問に付したのである。事実、インパール作戦に関係した各級司令官や、参謀総長をはじめとする大本営の作戦担当者たちは、何ら責任を追求されることなく、その後も昇進、栄転を重ねている。
 戦病死三万人、傷病兵四万人以上を出し、歴史的な大失敗に終わったインパール作戦は、責任者不在のまま、歴史の闇に封印されてしまったのである。
 源はこの事実を知ると、腐敗しきっていた当時の陸軍中枢部の実体にあらためて驚き、そして嘆き、深いため息と一緒に、やるせない無念の想いを吐き出した。
「散っていく一生懸命のけなげな若い生命と、ぬくぬくと生き延びる傲慢で無能の老兵…。日本は負けるべくして負けたのだ!」と。
 しかし、これは後世のことであり、ビルマから新天地に赴こうとしていた源には、まだ知るすべもなかった。



【パラオ、ペリリュー島の戦い】

●ある初年兵

 メイミョーに落ち着いて一ヶ月後、正式に上等兵となった源は、原隊である第一五連隊への復帰を命ぜられた。脚もかなり良くなり健康を回復した源は、数日後、山元らと惜別の挨拶を交わし、複雑な思いを胸にビルマを離れた。
 インドシナから南支那海、フィリピン南部沖を回航し、東京から約三、二○○キロ離れたパラオ諸島の要衝「ペリリュー島」へと渡って行った。
 満州のチチハルに駐屯していた第一五連隊は、本部をパラオに移したが、源が所属する第三大隊は、中川州男大佐が指揮する第二連隊への増援部隊として、パラオ諸島の前進基地ともいえる当地に配置されたのである。
 田所軍曹や山元曹長、タコ壷陣地、飢え、左脚の負傷、そして「あずさ」…。ビルマでの様々な想いをあえて封印して新天地に赴いた源は、まるで当地のまぶしい太陽と蒼い海のように、久しぶりに晴々とした気分でペリリュー島に上陸することができた。
「ここが自分の死に場所か…、陰湿なビルマのジャングルよりは数段ましだな」などと開き直り、集合場所へと歩き出した。すると、前方から懐かしい大声が響いた。
「よう、吉澤源じゃないか。久しぶりだな、ビルマはどうだった?」
 第一五連隊の第三大隊長、千明武久大尉だった。浅黒い満面の笑顔で、手を振りながら源に近づいてきた。
「…ビルマもインドも地獄でしたよ」
 源も、明るい声で応えた。
「そうか、よく無事に復帰してくれた。今度の作戦には『オマエのような優秀な狙撃兵が絶対に必要だ』と連隊長に無理にお願いし、本大隊に戻してもらったんだ」
 源は、一兵卒でありながら大隊長と直接会話ができるほどの自身の立場を誇らしく思い、生温かい優越感に浸った。
「そうだったんですか、大隊長が自分をあの地獄から救ってくれたんですね。ありがとうございました」
 千明大尉はひとたび大笑いしてから、急に小声で源の耳もとにささやいた。
「勘違いするな。オマエだから正直に言うが、ビルマは生還できる地獄だったかも知れないが、ここはそうはいかない…。本当の地獄になる。何せ、こんなに小さい島じゃ、逃げ場がないからなぁ。司令官の中川大佐もどうやらそのお覚悟のようだ」
 源もある程度は玉砕の覚悟をしていたが、直々の隊長からはっきり言われると少々こたえた。
「大隊長、そうはっきり言わんでください。でも…、原隊で故郷の仲間と一緒に闘えるのなら、死んでも本望です」
 すると大尉は大声に戻って一喝した。
「ばかもん、オマエに死んでほしくて呼び戻したわけじゃない。親父さんから受け継いだ超一流の狙撃の腕で、敵を殲滅してもらうために呼んだんだからな。そのことを忘れるなよ」
 千明大尉は一瞬間後、眉間のシワと緊張した口元を一気にゆるめ再び笑顔に戻ると、相も変らぬガニ股で去って行った。
 赴任して数日が過ぎた頃、日課である炎天下での陣地構築作業に汗を流していると、突然、島中を巡回指導していた中川大佐が現れた。
 源の第一印象は、(根暗で、気の弱そうな司令官だなぁ。こんな人に守備隊の指揮が勤まるのか?)という程度のものだった。現場の長に、何やらボソっと一言小さな声で話しかけたようだったが、聞きとれなかった。ビルマでいやというほど地獄を体験してきた源は、シミ一つない上等な軍服をまとったこの男も、(どうせぬくぬくと生き延びる無能な老兵なのだろう)と、冷ややかな視線を投げかけた。
 まさか、無口で無愛想なこの男が、のちに一一回も天皇から御嘉賞を賜るほどの勇将であったなど、このときは夢想だにしなかったのだ。
 司令官が踵を返し、小休止の号令がかかると、源はいつものようにお気に入りの岩山の斜面に登り、腰をおろした。そこからはどこまでも広がる海原が一望できた。さっそく山元に教えられた「煙草」を取り出し、汗を拭いながら点火した。
 しばらくすると、下から小太りの二等兵が上がって来るのが見えた。息を切らせて登りきった二等兵は、忙し気に敬礼すると遠慮がちに源のとなりに座り、深呼吸した。
「吉澤上等兵は射撃の名人と聞きました。自分も多少はやります。今度、機会があったらぜひご教授ください」
 二等兵は緊張していた。源がにらみつけると怯えたような顔をし、大きな身体を縮こまらせた。源は少年のぎごちない態度を見て、つい最近のように思える自分の初陣を思い出した。そして、笑顔でやさしく言った。
「ああ、機会があったらな。ときに、オレは将校でも下士官でもないし、同じ兵隊なんだから、そんなに恐縮する必要はないよ」
 二等兵は、安心したように微笑み、顔全体に浮かべた大粒の汗を拭った。
「名前は?」
「はっ、関川賢吾であります」
「国は新潟か?」
「はい、なぜわかりました?」
「ビルマで一緒に闘ったオレの戦友にも『関川』という男がいた。新潟に多い名前だからな」
 彼は、まだあどけなさが残るその顔から察して、初年兵のようだった。
「敵を撃ったことはあるか?」
「いいえ、まだ…。でも訓練ではよく誉められました。
 ここへ来る船の中で一緒になった一五連隊の古参兵の方から、『吉澤という凄腕の狙撃手がいるから、オマエも手ほどきをしてもらえ』と教えられました」
 そう言われて源は少し嬉しかった。(親父は、もっともっと凄かったんだゾ)と自慢したかったが、やめた。自分の射撃を見たことももなく、実戦の経験もない初年兵に、そんなことを言っても無意味だと思ったからである。
「そうか…、訓練では誉められたか。だが訓練と実戦は別だぞ」
 関川は(そう来ると思った)と言わんばかりに源の言葉を引き取り、言った。
「はい、わかっております。実戦の的は不規則に動きまわるし、反撃もしてきます。だから…」
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋