ゆきの谷
黙ってうなづいていた源は、山元にさらに辛い告白を強いるようで気が引けたが、恐る恐る口を開いた。
「それで、姉さんの死はいつ頃知ったのですか?」
一瞬間後、なんと山元が大笑いした。予期せぬ事態に源は顔をこわばらせ、唖然と山元を見た。
「いや、急に笑い出してすまん。何しろ、聡明だと思っていた親父にも意外と間抜けなところがあってさ、本当に笑ってしまったんだよ。
…オレを里子に出した先が、近所の寺の住職の家だったんだ。その住職は親父とは親しい間柄だったから、以前からオレの非行について相談にのってもらっていたらしい。
あんなに姉のことを隠しておきながら、うかつにも親父は姉の墓がある寺にオレを出したわけだ。…なっ、間抜けだろ。
ある日、住職から墓の掃除を言いつけられて墓地へ入ると、一つだけ新しいミカゲの墓石が目についた。そこには、姉の名前と命日が克明に彫ってあったんだ。そのときは正直言って驚いたよ。
オレはとぼけて住職に尋ねた。『若くして亡くなられた可哀想なあの女性、いったい死因は何だったのですか』とね。そうしたら住職はとっさのことでもあったので、オレの姉とも気づかずにすぐに応えた。『ああ、自殺だ』…と」
あたりを冷たい緊張感が支配したが、山元はかまわずに続けた。
「自殺じゃ先祖代々の墓には入れない。それで親しい寺の住職に、秘かに姉の供養を頼んだわけだ」
源の耳は、重苦しい静けさの中から、ようやく窓の外の雨音を感じとることができた。窓ガラスを叩くそれは、しめやかに強弱のリズムを奏でていた。
「…薄々感づいてはいたが、ショックだった」
山元は途切れがちに、雨音にかき消されそうな弱々しい声を発した。
「哀しい結末ではあったが、何とか姉の一件が落着し実家が平静を取り戻しつつあった矢先に、今度は床に伏していた母が、姉を追うように他界した。
結局オレは、母の葬儀のあとも呼び戻されることはなく、そのまま住職の家に正式に養子入りすることになった」
山元の悲しい笑いの理由がわかり、源は胸が締めつけられた。山元の父にすれば「とんだ誤算」や「ついうっかりの偶然」だったかも知れないが、事情を知らされていなかった山元の、墓前に立ったときの衝撃は源にも容易に想像できた。
「姉さんは、なぜ自殺を?」
さらに源が遠慮がちに聞くと、消え去りそうな小声で山元は言った。
「それは、未だにわからない…」
口をつぐんだまま動かなくなった山元は、回想しているというよりも姉の自殺の原因を、まるで今この瞬間も考えあぐねているかのように、源には見えた。
「出征の前日、実家を訪ねたとき二人の兄に『後生だから』と改めて聞いてみたが、最後まで口を閉ざしたままだった。名家をあずかる親父にとっては、身内の『自殺』などという不名誉は、絶対にあってはならないことだったんだろうな。その後親父は、家族や住職をはじめ事件を知る町の者に、改めて厳重なかん口令を強いたようだった…」
源も黙ったまま、天上のシミをながめた。そしてこの男の正体が、予想どおりであったことに、なぜか安堵していた。
それは、元々正直で人間味にあふれ、誠実で非行などとはおよそ無縁な人間であったということと、彼の「戦争論」に感じたとおり、学業成績など超越するほどの、並外れた知性と教養の持ち主であるという確信である。そんな山元が、最後にポツリと言った。
「…なぜか、源の姉さんが他人とは思えない。オレの姉に、哀しさが似てるからな…」
●「責任逃れ」に奔走する陸軍首脳
──方、インパール作戦は完全な失敗に終わり、結局、大本営は昭和一九年七月四日に作戦中止を正式決定した。
五日後の九日から全軍の撤退がはじまったが、源が後送時に目撃した、山谷を埋め尽くす死傷兵の列は、この撤退により急速に長く太く拡張し、地獄絵図は増々肥大化していった。インパール作戦における犠牲者の多くが、この撤退時のものである。
約一○万人のほぼ全員が深刻な飢餓状態にあり、大半が各種の傷病におかされていた。
歩くことさえおぼつかない将兵に、容赦なく追撃してくる英国・インド軍を振りきって二、○○○メートル級の険しい山脈を横断できるはずもなく、インパール、あるいはコヒマから東へ延びる道なき道は、延々と続く日本兵の遺体で埋まった。
のちに関係者は倒れた戦友を悼み、牟田口をはじめとする軍上層部への遺恨の念を込めて、これを「白骨街道」と呼んだ。この異名は、以降、インパールの悲劇の象徴として語り継がれていく。
戦後、源はビルマで世話になった田所軍曹や一戸曹長の消息を捜索しようと調査する過程で、こうしたインパール作戦の結末と作戦を強行した陸軍首脳の驚くべき醜態を知ることになる。
第一五軍を構成する三人の師団長全員が、作戦途中で更迭されたことは、前例のない異常事として前線でも噂にはなっていたが、当時、一兵卒として大部隊に組み込まれていた源を含むほとんどの将兵には、上層部で起きていた前代未聞の異常事を知ることはできなかった。
──三個師団のうち、インパール北部の要衝「コヒマ」攻略を目標に、最も険しい北のルートを進むこととなった第三一師団の佐藤幸徳師団長は、第一五軍参謀から作戦の全貌を告げられると、すぐさま補給困難を理由として猛反対した。
作戦準備命令が発令されると、「オレも軍人だから、命令は尊守してコヒマは絶対に奪ってみせる」と胸を張りつつも、「もしインパール占領がならず、食糧、弾薬が尽きたらどうするか」を憂慮し、第一五軍の補給担当参謀を呼びつけた。
作戦では、事前に用意される食糧、弾薬などの物資は、前述のとおり三週間分と定められ、その後の分については、インパール占領後の敵の集積物資を押収してこれに当てることになっていたからである。
そこで佐藤師団長は、冷然と佐藤を見つめる参謀に「作戦開始から一週間後に日糧一○トン、五○日後からは常続補給」を約束させた。
はたして──、第三一師団は佐藤の公約どおり一旦はコヒマを占領するが、飢えと弾薬の枯渇状態の続く中、敵の猛反撃に遭い退却を余儀なくされる。
佐藤が危惧したとおり、第一五軍からの物資補給がほとんど実施されなかったためである。
後方から攻撃を督促する牟田口の矢のような電報が舞い込むと、佐藤は激怒し「弾薬、糧秣底をつき、もはや作戦続行は不可能なり。補給を受けうる地点まで独断退却も辞せず」と返電した。
作戦開始から約三ヶ月後の六月一日、ついに日本陸軍史上前例のない、上級司令部からの命令を無視した師団長独断による撤退が開始されたのである。こうして、戦線を支える三つの師団の一つが欠け、インパール作戦は瓦解した。
ほかの二人の師団長とともに作戦途中で更迭された佐藤は、当然、命令違反による軍法会議を覚悟していた。
むしろ佐藤は、第一五軍の「補給についての約束違反と、作戦のデタラメぶり」を糾弾する公の場を望んでいた。それこそが、無念の死をとげた多数の部下に報いる道であると、信じていたからである。
「『大本営』『南方軍』『ビルマ方面軍』『第一五軍』のバカの四乗が、インパールの悲劇を招来した」という述懐が、当時の佐藤の心境を克明に物語っている。