ゆきの谷
…シンガポールで、大きな白旗を掲げた英兵がこちらに向かって歩いて来たそうだ。それを確認した数人の日本兵は、勝ち誇った顔をして、投降した敵兵を収容しようと銃口を下げて出て行った。
『闘いを放棄したものに銃口を向けたりはしない』、それが武士道だからな。そうしたら彼らは、斜め後方で隠れるように構えていた敵の機関銃にあっと言う間になぎ倒され、全員が即死したそうだ。…オマエどう思う、この話?」
源は、日本軍を皮肉った山元の口調に、やや不快感を覚えたが、言わんとしていることは何となく理解できるような気がした。
「…ようするに、情け容赦なく、死にもの狂いでやらないと、この戦争には勝てないということですか?」
山元は激しく首を振った。
「単なる『死にもの狂い』じゃダメだ。国際法もクソもない。慈悲や道徳心、武士道精神さえも慮外の『科学的、合理的かつ徹底した死にもの狂い』じゃないとな」
そう言い切ると、山元は三たび大きなため息をつき、枕に頭を沈めた。源は秘かに心の底で、山元の博学ぶりに感心していた。彼なりの「戦争論」のほんの一端を聞いただけで、ただ者とは思えない豊富な知識と教養の深さが感じとれたからである。
「山元さん自身のことも、いろいろと聞かせてくださいよ」
源は彼の思想にも興味を持ったが、むしろ、そのような思想を醸造させた山元の生きざまに、より強い関心を抱いた。
「勘当同然に養子に出された」その事情は…。
ただ者とは思えぬこの男は、どのような環境で育ってきたのか、また、いかなる経験がこのようなドクトリンを生んだのか、源の好奇心はむらむらと増殖していった。
●軍人家系のツラ汚し
山元は、「何から話そうか…」と考えあぐねているようすで、しばらく広い天上を見まわしていた。そして改まった口調で、ゆっくりと語り出した。
「子どもの頃のオレは、上の二人の兄と違って頭は悪いし勉強嫌い、いたずらばかりしてよく大人から怒られていた。だから学業成績も、常に超低空飛行を維持していた。
エリート軍人だった親父は、オレを目のかたきにして、『オマエはわが家のツラ汚しだ』と、よく怒鳴っていたよ。母親は、『お宅の洋作クンが同級生の女の子をいじめた』と学校から呼び出され、『畑のイモを盗んだ』と警察に呼ばれ、ひっきりなしに他人に頭を下げていたから、それを聞いた親父が激怒するのも無理はなかったけどな。
近所に住んでいた伊予訛の性悪なガキ大将と、よく一緒に悪さしたっけ。…だがな、あるときを境に親父が叱らなくなったんだ。なぜだかわかるか?」
しばらく考えたが源には理解できず、怪訝な顔を横に振った。
「うちは代々、由緒正しい軍人家系だった。維新前の祖先は、かなり高級な武士として城に仕えていたそうだ。祖父は日露戦争で武勲をあげ、少将にまで登った地元の名士だ。
親父は指揮官や参謀タイプではなく官僚だったが、バリバリのエリート将校だった。二人の兄も学校の成績は抜群で、のちに二人とも市ヶ谷(陸軍士官学校)へ行ったよ」
そこで一息ついた山元は、淋しそうに言った。
「…親父が叱らなくなった理由は、オレを捨てる決心をしたからなんだ」
「捨てる!?」
源は驚いて、思わず大声をあげた。
「そんな、犬や猫じゃあるまいし、子どもを捨てるだなんて…」
「捨てるといったって、ポイって本当に捨てたわけじゃないよ。里子に出したんだ。つまり、早い話が厄介ばらいさ。
親父は、手のつけられない不良息子が、わが家の名誉と平和を破壊し続けることに、我慢ができなくなったというわけだ。
伝統ある名家が、世間の目を気にして『汚点』を排除するなんて、別にめずらしいことじゃないだろ、よくある話だ…」
源は、山元と知り合ってから今日までを回想しながら、大きな疑問を感じた。他人に対して思いやりがあり、人情深く面倒見の良いこの男が、どうしても根っからの非行少年だったとは思えなかったのである。
「山元さんは、何で不良になったのですか? 何か、親を困らせたい理由でもあったのですか、または正常な精神状態を維持できなくなるような、ショッキングな事件とか………、あっ!」
源は、背中に冷や汗を感じた。思いを巡らせているうちに、知らず知らずに山元の心の障害の核心に近づいてしまったことに、突然気づいたのだ。(まずいことを尋ねてしまった)と思ったが、もう遅かった。
恐る恐るようすをうかがう源に、山元はゆっくりと寂し気な微笑みを返した。
「そう。今、オマエが想像したとおりだ。以前にも述べたように、オレが六歳のとき、母親以上に慕っていた姉が死んだ。
まだ幼かったオレにはよくわからなかったが、姉が亡くなる一年ぐらい前から、何だか家の中が騒然としてきて、子どもながらに、自分の知らないところで何かとてつもないことが進行しているような気配を察知した。しかし、当時のオレは姉とは離れて暮らしていたから、よくわからなかったんだ。
ある年の、桜が咲きはじめた時期に、親父は軍の勤務先の都合で、東京方面の『…何とか』という町に単身、赴任していった。ほどなく姉もその町の女学校に通うことになり、親父と同居することとなった。指宿には母親と三人の兄弟が残ったわけだ。
幼かったオレは、姉と離れ離れになったことが淋しくてしかたなかった。上の兄が姉と文通していたのを知っていたので、手紙をこっそり読んでみようと探したが、どうしても見つけることができなかった。どうやら『洋作には見つからんように隠しておけ』ということになっていたらしい。
しばらくすると、昼夜を分かたず電報がよく届くようになり、その直後には母や上の兄が頻繁に出かけるようになった。二人とも妙に緊張した表情だったことを記憶している…」
「父上と姉さんの間に、何か問題でも?」
山元のわずかな沈黙に反応し、源は話の先を催促するように口をはさんだ。
「母が寝込んだのも、ちょうどこの頃だ。おそらく心労だったのだろう。
…胸騒ぎというほどのものではなかったが、このとき、なんとなく姉に何か起こったらしいことはオレにも理解できた。しかし、それがどんなことなのかまではわからなかった。
母や上の兄にいくら聞いても、教えてくれなかったよ。まったく相手にされなかったんだ。
オレは、『こんなに姉のことを想い心配しているのに、子ども扱いしやがって』と、むくれた。以前から随分とワンパクだったが、今にしてみれば、このとき自暴自棄になったのが、非行に走った最初だったような気がする…」
山元は、再び天上をながめたまま、黙り込んでしまった。源は上半身を起こし、取りつかれたように山元の横顔を見つめていた。しばらくすると、再び山元が重たそうに口を開いた。
「…その後、指宿の実家と親父の赴任先の間で何があったのかは知らない。オレは学校も休みがちになり、遊びほうけていて、家には寄りつかなくなっていたからなぁ。
たまに帰ってくる親父も、母や上の兄と同様に何も話そうとはしなかった。オレは家族のそんな態度にいら立ち、ますます非行にばく進し、悪さの限りを尽くした。そして放り出された。…と、いうわけだ」