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ゆきの谷

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 自分の胸中に渦巻くドロドロとしたどす黒い思いを、この男なら上手に論理的な言葉で表現してくれるのではないかと、源は山元の次の言葉に期待した。
 仰向けに寝転び、後頭部で両手を組んだ山元の腹は、激しく波打っていた。しかし、その興奮を意識的に抑えようとしているらしく、しだいに腹の躍動は鎮静化していった。
「日本はダメだな…」
「…日本はダメですね」
 今度は源が復唱すると、山元がゆっくり半身を起こし、源の方を向いた。
「オマエ、何で日本がダメになったか、わかるか?」
 想定外の問いかけに、源は山元の顔を見たまま首を横に振った。
「勝者は眠り、敗者は学ぶだよ」
 ますます意外な言葉に、源は眉をひそめた。
「日本は明治維新以来、日清、日露と対外戦争に連勝し、今回も日華事変から真珠湾、マレー、シンガポール、フィリピンに至るまで負け知らずだった。いや、神武天皇による建国以来、外国とのイクサには無敗を誇ってきたと言ってもいいだろう。ドイツのヒトラー総統も、日本が枢軸側に立って参戦したとき、『これで我々の勝利は保証された。二、○○○年間負けたことのない神の国が味方についたのだから!』と絶叫したぐらいだ。…しかし、その『負け知らず』がこの国をダメにしたんだよ。
 勝ってばかりいるヤツは、思考が硬直してしまう。そりゃそうだよな、負けないんだから反省する必要がない。
 日露戦争で、『砲撃→歩兵の突撃→迫兵戦』というお馴染みの戦法で大国ロシアに勝ってしまったものだから、金のかかる機関銃や戦車、航空機などの開発・装備には大した努力も払わず、未だにこのワンパターンをくり返している。米兵や英兵など、軟弱な敵にバタバタとやられるのは、ヤツらが強いわけじゃない。日本が兵器の近代化や、その運用方法の研究を怠って来ただけのことだ。オマエも知ってのとおり、そのせいで多くの戦友が犬死にしている。
 何重にも張りめぐらされた有刺鉄線の向こうから、無数の機関銃と迫撃砲が狙いを定めているっていうのに、軍刀を振りかざして突撃していく様は尋常じゃない。キチガイだ。勝利のワンパターンが、ここまで人をバカにしてしまうということを証明している。そう考えると、勝ち続けるということは、本当に恐ろしいことなんだよな。
 ところが戦争で一度でも大敗すると、二度目は負けたくないから、たいがいのヤツは反省し何がいけなかったか、どうすれば次は勝てるかを研究するわけだ。あるいは、戦わずに平和を維持しようと努力することも選択肢の一つとなる。そういった、勝ったり負けたりのイクサを日常的にくり返してきた欧米の連中はとにかく研究熱心だ。
 動力機関や飛行機などの近代兵器をはじめ、カーディガンなどの機能的に工夫された防寒服に至るまで、あらゆる先進技術は、元々は軍事目的として誕生した。
 戦術や戦略などの研究も凄いもんがある。そんな按配だから、イギリス軍などは将軍から一兵卒にいたるまで、兵站や制空権の重要性を知りつくしているし、携帯用個人兵器もわが軍とは比較にならぬほど充実している。日本は、こうした装備品や個人兵器の研究を臆病者の証しと切り捨て、平然としている。情けないこっちゃ。
 そんなことだから日露戦争の二○三高地で、機関銃の存在にも気づかんアホな司令官や参謀の下、バタバタと何万もの兵隊が犬死にさせられたんだ。ちなみに、当時の第三軍の伊地知参謀長はオレと同郷、鹿児島出身だ…。
 総じて日本軍は、伝統的に精神主義に重きを置き過ぎ、兵器への研究心や向上心が低すぎた。この点は欧米人を見習うべきだな。さらにやつらは、勝つためには手段を選ばない。そこには、ある意味『武士道』も『騎士道』も『プライド』も、へったくれもない。
 英米のごときは、ヒトラーの脅威を目前にすると、昨日まで天敵だったスターリンとも平気で結託したりする。また、やつらは平然と捕虜になる。オレには理解できんが、そこまでバカになれるから、強いんだろうな…」
 演説調の話が一段落すると、山元はシミだらけの天上を見つめて再び深いため息をもらした。源も、これまでの戦場での体験と重ね、山元の論旨はよく理解できた。
「確かに、増水した川を渡った朝に、防空壕からながめた敵輸送機の数には驚きましたね。一にぎりの落下傘部隊への補給がアレですから。わが軍とは大違いですよね…」
 源の言葉にうなづいた山元が、突然、失笑した。
「この戦争は、日清、日露の頃とは違うんだ。大和魂に頼って兵站を考えないようじゃ、作戦なんてできっこない…。
 さっき、わが国の惨状は『負けたことがないのが原因だ』と言ったが、より正確に表現すれば『戦争に負けるということが、いかに悲惨な結果を招くか、ということを体験してこなかったのが原因』と言い直すべきだな。中世以前の欧米では、戦争に負けると、国民は生命と財産のほとんどを奪われる。つまり領土の全部を占領され、おおむね皆殺しにされるということだ。
 国自体が消滅することだって、決して珍しいことではなかった。そこには、情けや哀れみは存在しない。情けをかけて敵国の子どもを逃がしたりすれば、一○年後には、今度はそいつらに復讐され自国が滅ぼされてしまうからな。
 やつらは、負かした敵にはわずかな再起の余地すらも与えないんだ。以前は、それが皆殺しや破壊、領土の占領だったが、第一次大戦後の敗戦国ドイツに対する連合国は、ベルサイユ条約を強要した。オマエ知ってるか? これがどれほど苛酷な条約だったか」
 熱弁をふるう山元は、まるで熱血漢の歴史学者のように見え、源は感心しながら大きく首を横に振った。
「まずは領土の分割だ。シェレースヴィヒはデンマークへ、エルザス(仏語=アルザス)・ロートリンゲン(同=ロレーヌ)はフランスに、、ズデーテンラントはチェコスロバキアへ、上シュレジアと西プロイセン、それに東プロイセンの一部はポーランドに、メーメルはリトアニアへ割譲された。また、ライン川の西岸は非武装地帯に指定され、軍隊はむろん武装警官さえ立ち入りを禁じられた。
 それから四二年月賦による二、七○○億金マルクという天文学的な賠償金を課した。それだけじゃない。軍隊の事実上の解体を強制し、国力の継続的な弱体化をはかったんだ。二度とドイツが自分らに牙を剥くことがないようにとな。
 おかげでドイツ国内は大混乱に陥った。本国と切り離された割譲地域の住民は難民となって本国へなだれ込み、経済は凄まじいインフレに見舞われた。平均的な官吏の月給が、リヤカーに積み切れないほどの札束の山だったといわれる。つまり貨幣価値が、これ以下はないほど下落したわけだ。国民生活も困窮し、自殺者、餓死者、犯罪者、浮浪者が町にあふれた。この講和条約の徹底した冷酷さには、慈悲や情けなどみじんもなかったのだ。
 フランス語か何かだったと思うが、『平和という単語の意味は、戦争と戦争の間のわずかな期間の事』なんて発想の連中なんだからな、ヤツラは…。
 このような欧米人に比べて、我らが誇る日本の武士道が、本当のところどんなもんか知ってるか?
これはある戦友に聞いた話だ。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋