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ゆきの谷

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「無傷の者は負傷者を手伝い、渡りきったらもう一度戻ってこいよ」
 という、少尉の大声が響き渡ったとき、源は鳥肌が立つ思いで感動した。トラック上で、負傷者と健常者を数えて悲観的になっていた自分の心配が取り越し苦労であったことがわかり、恥ずかしささえ感じた。
 山元を含む健常者三人に付き添われて、源も橋を歩き出した。水は想像以上に冷たく、流れの水圧は驚くほど強かった。「なるほど少尉の警告どおりだ」と思いながら、源は激痛に耐えながら懸命に歩を進めた。
 橋の幅は二メートル、全長は約三○メートルほどだった。土佐出身の工兵の説明どおり、はじめから水没することを想定して造られていたために、手すりなどはなく、増水時でも流失しないように工夫されていた。したがって橋脚も細い流線形に形成されており、水圧の影響による揺れもかなり抑えられているようだった。
 最後に、最上級者の重傷を負っていた中尉が、二人に担がれて無事渡りきった。下流で不測の事態に備えていた裸の二人も合流し、半日がかりの命がけの渡渉が無事完了した。源が渡りきったときには、すでに先行していた宮原少尉や一部の健常者たちが、脇の林から適当な木を切り出し担架を製作していた。源は、その献身的な少尉の配慮に三たび感服した。
「こんな素晴らしい人が、自分の隊長だったら、いや日本の指導者だったら…」そんな想いで胸を熱くし、勧められた担架に申し訳なさそうに横たわった。
 最大の難関と思われた渓谷を無事に渡りきった一行は、メイミョーをめざして森の中の一本道を歩きはじめた。宮原少尉は先頭に立ち、緊張したおももちで周囲を警戒しながら進んだ。源はその丸まった背中を見ながらつくづく思った。「こんな隊長のためなら、喜んで死ねるのに」と。
 源の担架を担いだのは、前が例の上等兵、後ろが山元だった。山元は疲労と苦痛に顔をゆがめていたが、なぜか「心ここに在らず」という風情で、何か考え込んでいるようすだった。
 ──その後もいくつかの小さな谷を越え、山を登り、森の中で野宿し、翌日の夜にはようやく平地に出ることができた。
 この頃になると食糧の調達がいよいよ難しくなり、源をはじめ、みな慢性的な空腹状態に逆戻りしていた。休憩時や仮眠の前もしゃべる者はなく、源も山元もぐったりと眠り込んだ。それでも宮原少尉は、率先して食糧の調達に走りまわり、弱気になっていたみんなを鼓舞する大声を絶やすことはなかった。
 そして、出発から三日目の朝、宮原少尉の執念ともいえる強い意志が結実し、ついに一人の落伍者も出すことなく、無事メイミョーにたどり着くことができた。懸念された、英落下傘兵との遭遇もなく、少尉は安堵の表情で宿営地の門をくぐった。まともな食糧も野営のテントもなく、苛酷な強行軍だったため、基地に到着したときは全員が空腹と疲労の限界に達していた。
 一休みしたのち、少尉は司令部で到着の申告を済ませ、みなをたたえる短い訓示を述べると解散を宣言した。ほぼ全員が医療施設に収容され、治療と体力回復のための処方を受けた。
 源がこれまでに体験してきた「野戦病院」にくらべたら、そこは天国だった。化膿してボロボロになっていた源の左脚は、かろうじて切断されずに済んだ。当地で可能な限りの治療が施され、真っ白い清潔な包帯が巻かれた。入院用の衛生的なベッドも完備されており、源は良く食べ良く寝た。
 ──数日後、源はベッドに横たわったまま、生気の戻った大脳で、宮原少尉のことを考えていた。山元が「少尉は更迭された」と言っていたが、この先どうなるのだろうかと。戦場での上官への反抗は重罪である。軍法会議か懲罰人事による、最も危険な最前線への送致が考えられた。
「お気の毒に…」
 ちょっと気弱そうな印象はあったが、あの責任感とリーダーシップは出色のものであり、源は、重ね重ね彼の部下として戦闘に参加できなかった不運を嘆いた。少尉が今後どうなるのかは不明だったが、脚がよくなったら必ず少尉を訪ね、正式にお礼を言おうと心に誓った。
 山元の言葉をかりれば、源にとっては何としても「宮原少尉は腹を割ってつき合いたい」と思える稀な人物だったのである。同年代か少し年上と思われる少尉と親交を深めるため、山元がそうしてくれたように、今度は自分が山元の立場になって接近してみようと源は妙にはりきり、ほくそ笑んだ。
 するとそこへ突然、その山元が現れた。
「おう、源、元気そうだな」
 山元もすっかり回復したらしく、顔のツヤもよくなり、左額のケガもほとんど完治していた。
「山元さん、どうもお世話になりました。おかげでだいぶいいようです」
 包帯で覆われた源の左脚をながめながら、笑顔でうなづいていた山元の顔が陰鬱な表情へと変化した。
「源、実は…、宮原少尉が亡くなった」
「……」
 源の全身から血の気が引いた。
「逃亡を危惧した原隊の中隊長が、少尉には『再編のための後送命令』だけを発令し、こっちの司令部に『上官への反抗』と『命令不履行』、『敵前逃亡』の罪状による逮捕・軍法会議送致を秘密裏に連絡しておいたらしい。
 憲兵からその事実を告げられて逮捕された少尉は、わずかな隙をついて脱走し、裏の森で自害したという…。ここへ来る前に、収容された少尉のご遺体を確認してきたところだ」
 源は頬を伝わる涙を隠そうともせず、山元の双眼をしっかりと見据えた。そして、あずさの生命を奪った空襲のあとの、あの防空壕の光景を思い出した。
「散っていく一生懸命の若い生命と、ぬくぬくと生き延びる…」
 源は二度目の確信をかみしめた。「もはや日本軍はお仕舞いだ」と。
「…少尉が亡くなったのは、いつですか」
 山元も、涙で目を真っ赤に染めていた。そして震える声を絞り出した。
「今朝だ…」
 窓の外は、相変わらずの雨だった。
 向き合う二人の脳裏には、両手にいっぱいの果物を差し出してはにかんだ少尉の笑顔が去来していた。そして、かけがえのない共通の恩人を亡くした悲しみと、この戦争の行方を憂いる気持ちを交錯させ、二人は見つめ合ったまま愁然と泣いた。

●山元の戦争論

「哀しいですね、戦争は…」
 源が、鼻をすする合間にぽつりとこぼすと、山元も復唱するようにため息をついた。
「悲しいなぁ、戦争は…」
 しばらく立ったままだった山元は、源の右どなりの空きベッドに気づくと、乱暴に毛布をはね除けて、ゴロンと横になった。
「源、オレは親父から勘当同然に養子に出されたダメ男だ。この作戦でも大して役に立てず、むしろヘマばかりして来た。そんなオレが、このとおりピンピンしているっていうのに、本来人の上に立つべき優れた若者が早死にして行く…。これは、いったいどういうことなんだ? まさに、神も仏もあったもんじゃない…」
 山元はやけくそぎみの大声を時折裏返し、吐き捨てるように言った。それは彼なりの、宮原少尉への間接的評価であり、無力の自分に対するいら立ちの表現だった。源とは多少異なるが、山元の戦争に対して感じている「不審」や「疑問」、「やるせなさ」や「怒り」は、同根であるように思えた。
作品名:ゆきの谷 作家名:尾崎秀秋