ゆきの谷
「あの少尉はまだ若いのに部下思いのいい人だな。むろんオマエは知らんだろうが、彼は更迭されたんだ。何でも、大勢の部下たちを犬死にさせた作戦に不満を持ち、中隊長に猛烈な抗議をしてはじかれたらしい。今の日本軍は狂っとる、良識あるいい人間ほどすぐに飛ばされるんだ…」
源は果実をつまむ手を休め、しんみりとした山元の話に聞き入った。同時に、加藤少尉を射殺した田所軍曹のことを思い出していた。山元が語る宮原少尉の話が、あの事件を受け入れるヒントのように感じられたからである。
今なら、何となくわかるような気がした。おそらく無私の胸中で、部隊のみんなを救うためにやむにやまれず少尉を撃った田所軍曹の気持ちが…、このときの源には、とても素直に理解できたような気がした。
二人の小さな壕には、ひっそりとした静けさが戻っていた。
●最愛の姉「梓織」
静寂のひとときをこばむように、再び山元がゆっくりと口を開いた。
「そうだ、生き別れた源の姉さんの話を聞かせてくれないか」
源は、その一言に胸が締めつけられるような、切なく冷たい痛みを覚えた。
今後、姉を想うたびに「あずさ」のりりしい笑顔がつきまとうような気がして、息苦しささえ感じた。
「…姉は、やさしい人でした。水上に越してからは、両親は百姓で忙しく、兄は脚が悪かったため、自分の面倒は姉が見てくれたんです。正直言って自分は、母親代わりの姉に、姉弟以上の感情さえいだいていたのだと思います…」
左額の傷跡をいじっていた山元の顔が、とたんに温和な表情に変化した。その表情を見た源は、山元は自身の姉の想い出を交錯させているのだろうと思った。
「姉は、父が亡くなるとすぐに、里子に出されました。のちに、母一人では三人の子どもを育てることができなかったからだと聞きました。…ウチは、貧しさのどん底だったんです」
「よく聞く話だな、日本人は貧しいからなぁ…。でも、もらわれて行った先はわかっていたんだろう、逢いに行かなかったのか?」
「母は、なぜか自分には教えてくれませんでした。でもときが経つと、教えてくれなかった母の心情も、なんとなくわかったような気がして、それ以降は改めて聞くこともしませんでした」
ゆっくりと深くうなづいた山元は、大きなあくびをし、源の手にあった果実にスッと右手を伸ばし、一つつまんで口にほうり込んだ。一瞬、いたずらっぽい少年のような笑顔をつくって見せたがすぐに真顔に戻った。
「さっき言ってたなぁ、噂では、姉さんは亡くなったと」
「はい、詳しいことはわかりませんが、向こうの家で何かあったようで…。兄が、母親の実家に行ったとき、偶然居合わせた誰かから『そんな噂を耳にした』と聞いたそうです」
「そうか…。でも、その親戚も噂を耳にしただけなんだろ、もしかしたら、どこかで生きているかも知れないぞ」
源は、依然として痛む左脚をゆっくりとさすりながら、黙思した。そして、ふっと気づいた。(言われてみれば確かにそうだ。誰も姉の死を確認した者はいないんだ)と。
姉は死んだものとすっかり信じ込んでいた源にとって、山元の言葉は単なる気休めではなく新たな可能性を感じさせる画期的な一言だった。少なくとも源にとっての「姉の死」が、源の勝手な思い込みであることに気づかせてくれたことは、間違いなかったからである。山元が再び大きなあくびをした。
「源、もう寝よう!」
その一言で源も突然、睡魔の存在に気づき、苦痛と脱力感に支配されたボロボロの身を、ゆっくりと横たえた。
壕の外からは、葉や土を叩く小さな雨音が聞こえた。世界に冠たるビルマの豪雨も、もはや力なく穏やかだった。源は薄らぐ意識の中で、懐かしい唱歌を口ずさんでいた。
「雨々降れ降れ姉さんが、蛇の目でお迎えうれしいな…」
まどろみの中で、幼い頃の想い出とともに歌をつぶやく源の純情は、すぐとなりに横たわる「オヤジ」の品のないイビキにかき消された。
百戦錬磨の精鋭下士官ともなると、イビキのスケールも半端ではなかった。それはグラマン戦闘機のエンジン音か、大地震を思わせる地響きのようにもの凄い迫力だった。だがその轟音も睡魔の敵ではなく、薄れ行く源の意識の彼方に、しだいに溶解していった。
●宮原少尉
──翌朝、源は山元のいびきを数一◯倍上まわるものすごい轟音に、覚醒を余儀なくされた。
飛び起きて空を見上げると、数一◯機におよぶ英軍輸送機が悠然と編隊を組み、東に機首を向けて飛んでいた。
雨は上がっていたが、灰色の雲は低く垂れ込めていた。それでも低空を飛来する鮮やかな銀色の機体は、雲の切れ間から弱々しくもれる朝陽を反射させながら、源の頭上を次から次へと通過していった。
「どうやら、この辺に展開している落下傘部隊に空中補給するための輸送機群らしいな」
先ほどまで横になっていた山元が、轟音に負けじと源の耳もとで大声を発した。向かいの防空壕の連中は不遠慮に顔を出し、空を仰いでいたが、山元が大きく手を振り身を隠すよう促すと、あわてて首を引っ込めた。
輸送機の爆音が東に消えると同時に、宮原少尉が上空をうかがいながら走ってきた。
「水没していた橋が姿を表わした。すぐに渡るので、各人、準備完了しだい坂下に集合せよ」
各壕に首を突っ込み、事務的な命令をくり返していた。源と山元は、意を決したように黙礼をかわし、壕の外に出た。
山元は源の左腕を自身の肩にまわし、川に向かって坂道を降りて行った。
「オマエのその脚、膿んどるなぁ。もしかしたら、もぎ取ることになるかも知れんぞ」
「切断ですか? 勘弁してください」
「いいじゃないか、脚の一本ぐらい。それで生きて帰れるなら…」
源の脳中に、山元の何気ない言葉が突き刺さり、幾重にもこだました。そして同時に、これまで山道で目撃してきた何百、何千という友軍将兵の死体が折り重なる光景が脳裏をよぎった。
名も知らぬ彼らが、まるで山元の口を借りて語りかけたように思えたからである。父や母を想い、兄弟姉妹を想い、あるいは妻子を想って無念の死をとげた物言わぬ戦友たちに、源はあらためて申し訳なさと哀悼の念を感じずにはいられなかった。
そして激痛に耐え、山元の肩にかかる左手に力を込めた。
全員が集合したのを確認すると、宮原少尉が訓示を述べた。
「自分は川漁師の家に育った。流れの怖さは、少なくとも諸君より熟知しているつもりだ。
橋の上でも水位はひざぐらいまである。流れの早さと強さから察するに、バランスを崩すと危険な状況である。みんな気を抜かず、心して渡るように」
五○メートルほど下流の両岸に、フンドシ姿の強靱な肉体の兵が二人待機していた。万一、流された場合の配慮のようだった。
源は山元が言うとおり、宮原少尉が責任感の強い、優れた士官であることに、今さらながらに敬服した。もし、牟田口将軍や加藤少尉のような平均的な陸軍指揮官がこの場にいたら、「この程度の川に何をびびっとるか! 渡渉に補助役などいらん、さっさと渡ってしまえ!」と一蹴したに違いない。
彼らにかかっては負傷者に気づかう少尉の深慮、または「やさしさ」は、「臆病者の証」と切り捨てられてしまうのである。