ゆきの谷
壕の外で、複数の足音がした。坂の上の歩哨が交代するためのようだった。英軍の空挺部隊(落下傘兵)が付近に進出していると伝えられていたため、負傷者以外の兵が二時間交代で警戒にあたっていたのである。
「目撃者はいなかったのか?」
「めったに人が入らない山奥ですよ、目撃者なんて…」
「そうじゃない、現場検証や駐在所での取り調べの目撃者だ」
山元は、例の刺すような鋭い眼光で、源をにらみつけた。
「それならいました、一人だけ」
「どんなヤツだ?」
「兄が、駐在所で警察官や憲兵と話をしていたという私服の男を見ています」
「地元の人間?」
間髪を入れずに追究する山元の姿勢は、まるで警察官か憲兵の尋問のようだった。
「いいえ、違うようです。少なくとも兄は、身なりなどから都会の人間であると感じたみたいですから」
「何か特長でも?」
「いや、多分兄の直感でしょう。容姿は丸坊主でやせ形、上等な背広を着た大男だったそうです。それから…、何でも、しきりに右手の指をこすり合わせる奇妙な動作をくり返していたのが、妙に印象的だったと…。おそらく、その男の癖でしょうね」
山元は、大きな声で一度「う~ん」とうなり、再び腕を組んだまま考え込んでしまった。
「山奥…、猟師、七・九二ミリ弾か…」
五分が経ち、十分が経っても動かないようすから、源は山元は寝たのだと思い、自分も壁に寄りかかって目を閉じた。耳が痛いほどの静寂の中、突然、山元の野太い声が発せられた。
「オマエ、『マタギ』って知っとるか?」
源は驚いて顔を上げた。
「はあ…。昔、父から少しだけ聞いたことがあります」
「オレは戦前、一年半ほど第一七連隊に出張していたことがある。秋田の部隊だ。最初は言葉が通じにくくて、往生したものだ」
山元は薄笑いを浮かべ、続けた。
「冬のある日、雪中行軍の訓練があった。身も凍るような寒い日に隊列を組んで険しい山奥へ入っていくヤツだ。オマエも知っとるだろう、東北地方の部隊にとっては冬の恒例行事だ。オレが参加したときは、例の『八甲田山』事件の教訓からか、規模も縮小され山の入口あたりからは案内人が同行した。彼らがマタギだ。奥深い山中での狩猟を生業とする、伝統ある猟師集団だ。彼らはみな、かんじきを履いていた。それからおもしろいことに、みな鍬のような形の木製のヘラのついた棒切れを持っとった。『それは何か?』と尋ねると、『サッテ』だという。歩行時の杖でありスコップでもあり、射撃時の銃座にもなる便利な道具だそうだ。
若い頃のオレは人一倍好奇心が旺盛だったから、休憩時や就寝前には猟の話をしつこくねだった。おかげでいろんな話を聞くことができた。彼らは、生活の知恵として生み出したサッテやナガサなど、独特の道具を使いこなし、熊や兎を採って暮らしてきた…。
話がそれたが…、彼らの戦術も必要から生まれた道具と同様に、何百年ものあいだ様々に試され、試行錯誤の末に確立したものだ。例え標的が熊であれ人であれ、仕事を貫徹するときは万全な準備をするはずだ。七・九二ミリ口径の小銃だけを手に一人で山に入ったというその猟師は、多分偽者だな。真犯人は、きっとほかにいるはずだ」
そう言い切ると、山元は再び考え込んだ。
湿っぽさの残る真っ黒な地面をにらみ、微動だにしないこの曹長を観察していた源は、(この男は本当に変っているな)と思った。どうも気持ちがまっすぐで、何ごとにも一所懸命な性格らしい。お互い、明日はどうなるかもわからない戦場で、たまたま同じトラックに乗り合わせた兵隊の昔話に、こんなに夢中になるなんて…。
源は山元を見ていて、幼い頃に父から聞いた「菱刈」という偉い上官の話を思い出した。父の職場の上司だったというその人物は、どんなことにも一所懸命で、部下まかせにせず何ごとも率先してやり抜く、素晴らしいリーダーだったという。また、人を見下したり上司にこびたりすることを極端に嫌い、女工や朝鮮人労働者も差別することなく、いかなるときも常に対等に接していたという。
父はことあるごとに「菱刈さん」から得た教訓を引用し、源に模範とするよう説いた。想像力の成長とともに、脳中でしだいに肥大化していくこの聖人君子を、父が源に求める理想の人物像であると信じ、その生き方を常に意識するようになっていた。
「あっ、そうだ!」
源は、菱刈さんと父のことを回想していたとき、事件に関係したもう一人の人物を思い出した。山元は源の言葉に反応し、ゆっくりと頭を上げた。
「実は、父が軍隊時代に世話になった上司に『加藤』という人がいたのですが、自分が三歳ぐらいのとき、つまり水上に越す直前に、退役以来久しぶりの再会をしたそうなんです。その後も二人は何度か会っていたようなのですが、事件の直後に困りきった母が『加藤さんに相談してみようか』とつぶやいたのを、兄が聞いたそうです。兄によると、母はその加藤という人物をかなり信頼していたようで、彼なら事件のことも何か知っているのではないかと…。しかし、母はなぜか加藤さんと会うことができず、困り果てて祖父に相談したようです。母の実の父親です。
すると祖父は、『何かの約束』が…と、言っていたそうです」
「約束?」
山元は眉間のシワをさらに深めて、源にたたみかけた。
「…それでオマエ、その加藤という人物に会ったのか?」
「それが…、のちに父の知人をあたったのですが判然とせず、入隊後も一五連隊の古参兵たちに聞いたり、いろいろと手はつくしてみたのですが、まだ見つからんのです」
山元は眉をひそめ、渋面を左右に振った。
「加藤なんて全国的に多い苗字だ、それだけじゃ探しようもないだろうな」
「でも一応、手がかりはあるんです。名前は弥太郎、『加藤弥太郎』といって、額に戦傷の火傷跡があることがわかっています」
そう聞くと、山元は突然にっこりと笑った。
「あぁ、知ってる。指宿の寺の境内に、額にアザのある『ヤタロウ』がいたよ」
「えっ、本当ですか!」
源は飛び上がらんばかりに驚嘆した。
「ああ、本当だ。ただし話は聞けん、相手は犬だからな」
源は山元の、田所軍曹なみの低俗なユーモアに鼻白み、肩を落とした。
「だって、本当にそういう犬が…」などと弁解している山元をにらんでいると、そこへ突然、宮原少尉が現れた。
壕をのぞき込み、「貴様ら、まだ起きとるのか」と、押し殺した声で一喝し、同時に両手を差し出した。一斉に敬礼しかけた二人がよく見ると、小さな野イチゴのような果実が、少尉の両手に山をつくっていた。
「だいじょうぶだ、喰える。ほかの壕の連中はみんな寝とったよ、だからオマエら二人で全部喰え。明日は川を渡るから大変だぞ、喰ったら早く寝ろよ」
そう言うと少尉は、ニコッとはにかむように笑った。
「あ、ありがとうございます、いただきます」
二人はその果実を受け取り、すぐさま口に放り込んだ。味までイチゴのように甘酸っぱかった。宮原少尉は二人の笑顔を確認すると背を向け、ゆっくりと去って行った。少尉を見送った山元は、残った果実を一粒づつ味わいながら目を細めて言った。