慟哭の箱 3
他人
目が覚める。カーテンを開けなくても、光の具合と音でわかる。窓の向こうは灰色の雨だ。憂鬱な朝の始まり。
(あんまり寝られなかったな…)
清瀬はぐしゃぐしゃの髪をかき混ぜてからベッドを出る。昨夜の浴室での出来事を、一晩中夢の中で反芻していた。
リビングに出ると、ソファで膝を抱える旭がいた。
「おはよう」
「…清瀬さん」
眠っていないのだと一目でわかった。昨日より一層濃くなった目の下のクマと、かすれた声。ひどく疲弊したふうの彼は、清瀬を見て目を逸らした。
「眠れなかったのか?」
「…昨日、怖いものを見ました」
消えそうな声で、旭は続ける。
「俺は、狂っているんですか」
膝を抱える腕が、震えている。自らを狂っているのかどうか、旭が繰り返し問うてくる。
「声が聞こえる。鏡の中で笑っていたんです」
何を言っているのだろう…。
「きみは狂ってなどいない」
少し眠らないと、と清瀬は告げる。他にどんな言葉をかけていいのかわからない。清瀬にもわからなくなったからだ。昨夜の会話、以前の襲撃。旭の不安はいまや、そのまま清瀬の不安として二人を包んでいる。なにか異様な世界に引きずり込まれたような気分。しかし清瀬は、逃げ出そうとは思わなかった。
「俺が野上先生のところに行くから、きみは休め。刑事らにも伝えておくから」
「でも…」
「今日は梢が休みだから、ここに顔を出すと言っている。一人にはしないから、安心して」
梢に連絡を入れる。早めに来られるか尋ねると、問題はないと快諾してくれる。ありがたい思いで携帯をたたんだその時。
「おまわりさん、」
ぎくりとした。清瀬の背に、子どもの声が届いた。
「行かないで。おまわりさん」
振り返れない。それは旭の声ではなかった。小さくて細い、ほんの少し高い、子どもの声。
誰だ。
ドッと音をたてて心臓が早鐘を打つ。振り返った清瀬は、旭がころりとソファに倒れこむのを見た。彼はそのまま、小さく寝息をたて始める。眠ってしまったようだ。
「……」
野上のところへ向かおう。これまでのことをすべて話して、不安を消したかった。清瀬までこのままでは、ともにいる旭が安堵できない。ここへ来てもらったのは、彼が少しでも落ち着いて事件と向き合えるようにするためだ。狂っているのかと問われ、明確な答えを示せないのでは、彼の心はますます恐慌状態に陥ってしまう。旭が頼れるのは、どうやら清瀬だけなのだから。
「すぐに梢が来るからな」
眠る旭に毛布をかける。旭は、眠りの中に逃げ込んでいるかのように、胎児のように体を丸めていた。