私の読む「源氏物語」ー86-手習3-3
「うら若い御前様には、こんな綺麗な衣裳をこそ、御着せ申しあぐべきである。然るにどうして興ざめる墨染の衣である」
という人もある。浮舟は、
あま衣変はれる身にやありし世の
かたみに袖をかけて忍ばん
(尼の姿に変った私の身に、俗体であった昔の時代の形見として、桜の花模様の花やかな小袿を着て、昔を心に掛けて思出そうと思う)
と書いて、気の毒に私が亡くなりでもしてしまったならば、その後に、どんな事でも物の隠れなく知られてしまう世の中なのであるから、聞き合わせでもして、妹尼を疎外する風にまで、自分の身の上を隠したのかと、妹尼が思うであろうと浮舟は、色々と迷惑を掛けたと気の毒に思いながら、
「過ぎてしまった過去の事を、私はすっかり忘れてしまいましたけれども、それでも、綺麗な衣裳の準備のような事を皆さんが急いでなさることは感慨無量である」
おっとりと妹尼達手を忙しく動かしている人達に言う。妹尼は、今縫っている衣の張本人がこの女であるとは知らないので、
「たとえ過去をすっかり忘れているとしても、思い出しなされる事は沢山ありましょうにねえ。どこまでも隠し通される事が、本当に私は情け無いことです。自分達は尼であるから、世間の一般の人の着る、こんな綺麗な衣裳の色合いなどを、長い間忘れてしまったから縫い物も上手には出来ないのであるが、亡き娘が存命していてくれたら、良いのであるがなあなどと思い出しています。貴女を私が自分の娘を大切に世話したように、かつて御世話申しなされた母親は、この世にまだ生存されていますか。私のように、かつて娘を目の前に死なせてしまっても、やっぱりまだ、娘は、何処かに存命しているであろう、存命しておるならばせめて、居る所はどこそこであると、だけでも尋ねて聞きたく思うのである。だから、そんなことを考えると、行くえがわからなくて、貴女を心配する人達が、今も何処かで捜しておられることでしょう」
「かつて私が見ていた時までは、母は
元気でした。だが、この幾月の間に、亡くなってしまわれたか、存じませぬ」
と言って涙が落ちるのを紛らわして、
「いつも昔の事を追憶すると、いやな気が致しますから、素姓なども申しあげる事が出来ないのです。打解けずに隠す事は、どんなことでしょうか、何も隠しませぬ」
言葉少なく浮舟は言ってしまった。
薫は、浮舟の一周忌の法事供養などを催して、浮舟との縁はこれで儚く終わるのか、と彼女も自分も可哀想に思った。あの浮 舟の養父に当る常陸介の子供は、元服していた者は、六位の蔵人に任官させ、薫の役所(右近衛府)の将監に任官させたりなどして、面倒を見ているのであった。近衛府には、大将(長官)・中将・少将(次官)・将監(判官)・将曹(主典)の職貝があった。また薫は常陸介の子供で童である者の中で綺麗な者を、そば近くに使おうとと、考えた。雨などが降ってしっとりとした夜に明石中宮の前に伺候した、薫にとって明石中宮は姉である。明石中宮の前は人もなくのどやかな日であって、世間話をするついでに、薫は、
「辺鄙な田舎である宇治の山里に、長年通って女を、浮舟という者を世話致しましたのに対して、外の人から、当時、非難されましたのも、当然のことと思います。私に限らず誰でも人は、気に入った方面の事は、そのようになるのであると、無理にでも考えて、非難はあってもその女のところに私は時々通っていましたが、その人が急に亡せてしまったのは、「宇治」は「憂し」という場所の悪いせいでありましょうかその後宇治は遠くて長い間参りませんでした。ところがたまたま先頃、浮舟一周忌に出かけて行って、この世のはかない育様を、重ね重ね味わってきましたが、山荘は特別に道心を起すように、故八宮が作って置いた、出家の住み家であると、どうも私は感じました」
と話すと、明石中宮は女一宮が病の時に祈祷に参じたあの僧都を思い出し、
僧都が話をした浮舟の事を思出し、浮舟が気の毒であるから、
「宇治には、何か恐ろしい物が住んでいるのであろうか。どの様にしてその浮舟は亡くなったのか」
と薫に問われると、薫は、死が続いたことを明石中宮は不思議に思われているのであろうと、
「恐ろしい物が住むのでしょうか、人のあまり行かない、宇治のような所は、物の怪が、どうも住みついておりますようで、その浮舟の死んだこともなんとなく怪しいところが御座います」
とだけ言って、詳しいことは話さなかった。明石中宮は聞く事はやっぱり、薫が、このように詳しく申さないで忍び隠している秘密を、私が人から聞いて、はっきり知っていると、薫に言おうと思うが、薫に気の毒に思われ、また匂宮が、浮舟死亡の当時は煩悶ばかりして、病に倒れたことを思い、浮舟存命のことを薫が知れば、ただには置かない。そうすると、病気までした匂宮は、浮舟に手を出せなくなるであろう。とに角、浮舟の存命と言う事は良かったに相違ないが然しながら相当に、匂宮には気の毒な事なので、どちらにしても、口に出しづらい浮舟の事であると考えて、浮舟が生きているという事を、云うのを止めにした。
小宰相にこっそりと、
「薫大将はあの女のことを、非情に可哀想であったと云われたが、私は気の毒で、僧都から聞いた事を告げなければならないが、その話は、浮舟でもないのかも知れない話であるから、薫に、無駄に気を揉ませる事になっても困ると、遠慮して言わなかった。小宰相お前は総て聞いていたねえ、その中よりはっきりしないことは言わないで、そんな事実が、あったようですよと、世間話のときに僧都が言ったことを薫に告げなさい」
「明石中宮にとって、薫は弟なのに御遠慮なされまするような事を、まして私如き他人は、どうして話が出来ましょうか」
小宰相は明石中宮に答えるが、
「物事は、色々な事情というものがあるので、今回はお前から話をしなさい」
と言われたので小宰相は、匂宮と浮舟との交渉を語るのを憚られる故であると理解して、心の中には、面白いと思って、中宮を見ながら承知をした。小宰相の局に立ち寄って薫が世間話をするついでに彼女は僧都から聞いた話を、薫に告げた。この世にこんな事があるのかと薫は驚くほど、不思議なことと思った。薫は明石中宮が色々と話され、質問されたのは、小宰相の話すこのような事を、明石中宮はそれとなく気づいて、話される事なのであったどうして、すっかり話されなかったのであろうかと、私は辛いが、考えてみれば自分も浮舟との関係を、最初からの事情を、かつて明石中宮に申しあげなかったから、中宮がそのことを考えられて控え目にして、すっかり御話しなさらなかったのも、当然であると思う。薫は小宰相から、浮舟の噂を聞いた後も、浮舟との秘密を語るのは、やっぱり馬鹿らしい気がし、しかも他人に簡単には漏らせない秘密であっても、却って、外部で噂に上がることもあろう。現在生きている人達の間に秘密にしている事でも、その秘密が保たれる世の中ではない。色々と薫は考え込んで、このことを告げた小宰相にも浮舟と薫が、かつて、かようなことがあったなどと、打ち明けることは、小宰相から聞いたから、こっちからも話そうかと思っても、いざとなると、やっぱり話し出しにくい気がするので、
作品名:私の読む「源氏物語」ー86-手習3-3 作家名:陽高慈雨